難読漢字も世につれ

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今どきの中学生や高校生で欅(けやき)という字を読めない子はいないらしい。椿(つばき)や柊(ひいらぎ)や梅(うめ)は読めないのに。(いくら何でも梅は読めるか)

 欅坂46とかいうアイドルグループ=写真左。違ってないよね?=の功績が大きい。(治五郎は毎年、ダース単位で量産されるアイドルというものを全く覚えられない)

 サッカー少年は興梠(こうろき)が読めるし、相撲が好きな少女は阿武咲(おうのしょう)が読める。幕下力士の天空海(あくあ)という、なんだか自衛隊みたいな四股名が読める子がいたら「アッパレ」をあげよう。沖縄以外の子供が序二段の「美」(宮城野部屋)を「ちゅら」と読めたら、ワシは往来を裸足で歩いてみせてもいい。

 

昨夜のサンド会は、皆勤賞の加藤画伯ひとりが参加。お陰で、琉球泡盛の最高傑作と言われる今帰仁(なきじん)酒造の「千年の響」=写真右=を心行くまで味わった。(彼は「一人で飲んじゃもったいないから」と言うのだが、治五郎はそのような気高い精神を持ち合わせていない)

アルコール分43度。いつ寝たのか覚えていないが、布団も敷かずに熟睡した。目覚めれば、少し寒いが気分爽快。さすがに、スピリッツは精神にいい。ごっつあんです。

 

新聞に載らない事件簿

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東京都内の読売新聞読者には毎月1度、A3サイズ1枚の「よみうり大江戸あんしんぶん」(発行:東京読売防犯協力会)が無料配布(折り込み)される。「北・荒川・板橋区版」12月号の「新聞に載らない事件簿」コーナーを紹介しよう。

11月中の発生場所・犯罪形態・発生状況(の一部)を知ることが出来る。詐欺、暴行、公然わいせつ、声かけ等があった=写真は尾久署のお巡りさんと子供たち=。

 

11月6日(月)、午後4時30分ごろ、板橋区大山金井町の路上で、児童(男)が下校途中、男に声をかけられました。

■声かけ等の内容 ・一緒に歩いて ・二千円をあげる

★不審者の特徴については、男、60歳から70歳くらい、黒髪、黒色上下、痩せ型、裸足

 

「裸足」なのである。他に特徴と言える特徴はない。この情報が警鐘を鳴らしているのは「60代の男が裸足で歩いていて、声を掛けてきたら相手にしないで逃げなさい」ということに尽きよう。大切な安全教育だと思う。(裸足の老人を見て逃げるような青少年は一生、都市部以外のモンゴルやグアテマラやドミニカには行かないだろう)

【裸足】〔肌足の意〕履物を履かないで地面を歩く▹こと(状態)。素足。

問題の老人は靴下さえも身につけていなかったことが、これでハッキリする。

今は冬だし寒波到来中だから、治五郎は股引のほかに厚手の靴下2足を重ねて履いている。(脱ぐこともないし爺シャツ着ていくよ、の境地)

しかし陽気がよければ、往来を裸足で歩いて子供に声を掛けたくならないとは限らない。(念のためですが、ワシゃ板橋区大山金井町の不審者とは関係ありません)

 

 

「ケンボー先生と山田先生」

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ケンボー先生は見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)(1914~1992)、山田先生は山田忠雄(1916~1996)。二人の辞書編纂者について、治五郎はその存命中から(面識などはないが)強い関心を持って見守ってきた。

見坊先生は「三省堂国語辞典」(略称「三国」)、山田先生は「新明解国語辞典」(略称「新明解」。ワシなどが「新解さん」と呼んでいるのは、赤瀬川原平のベストセラー「新解さんの謎」に便乗している)の編纂者である。

同じ出版社から2種類の国語辞書が出され、それぞれが個性的な内容で熱心なファンを擁している。新解さんのオールドファンと言っていいワシは、赤瀬川の本が出た時は快哉を叫んだものだ。

2013年4月にNHKのBSプレミアムが「ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~」という番組=写真=を放送したところ、これが大好評。取材した佐々木健一ディレクターが翌年、「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」と題して書籍化(文芸春秋)すると、これがまた大きな反響を呼んで昨年、早くも文庫になった。

二人の先生は、どちらも言葉のマニアというかオタクというかフェチというか変態というか、とにかく常軌を逸している感がある。見坊先生は一人で145万件の用例を集めた怪人だし、新解先生は(ご承知の通り)言葉の意味を表からも裏からも徹底的に追究した(というか撫で回し、ほじくり返し、しゃぶり尽くした)。

東大国文科の秀才同士だった両者は、1972年1月9日を境に袂を分かち「自分だけの」辞書づくりに邁進する。その日に何があったのか? 多くの関係者に取材した佐々木ディレクターの労作は、その真相に肉薄して下手な推理小説より面白い。

二人の関係は、新解さんが定義した「世の中」の説明にも滲み出ていると言う。

【世の中】同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織り成すものととらえた語。愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。

クーッ、やっぱりそこまで言わないと気が済まないのですね、新解さん

テレビ番組の方をワシは見逃したが最近、ユーチューブで見ることができた。それぞれの辞書のファンを自認する向きは、削除されないうちに急いで見ることをお勧めする。

 

 

 

高所恐怖症や閉所恐怖症の人は読まないように

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その気(ケ)は少々あるものの「恐怖症」というほどのものではないだろう。と、長らく高を括っていたのだが・・・。

グアテマラへ初めて行って、マヤ文明の遺跡「ティカル」=写真=を訪ねた時のことだ。小さめのピラミッドみたいな「神殿」が何基もあって、当時は自由に登れた。

一番高いもので50メートル前後だろうか。高層ビルで言えば16~17階ぐらいの高さ。平気で登る観光客が多いので、(よせばいいのに)つられるようにして登ってみた。石を積み重ねた階段は、幅が狭くて傾斜がかなり急だ。

行きはよいよい、帰りは怖い。頂上に立って下を見たら足が竦んだ。だめだこりゃ。立った状態で歩いて下りることなど、出来るわけがない。先祖代々、鳶(とび)職の家系に生まれ育ったという人でもなければ無理だろう。

腰を下ろして1段1段、ずり落ちるようにして地表復帰を目指したが、それだと却って恐ろしいので途中から、石段に張り付くようにして後ろ向きに下りていった。

観光客は西洋人が大半のようだ。治五郎と同じ格好で下りるお婆ちゃんもいたが、大半は「お先に~」とか何とか声を掛けながら、立ったままスタスタと下りていく。(彼らは鳶の集団だったのだろうか)

 

その後、1~2年に1回ぐらいだが、高い所に登って下りられなくなった夢を見る。よく、高い木に登って下りられなくなる愚かな猫がいるようだが、ワシの前世はそれだったのかも知れん。

5年に1度ぐらいとなれば、もっと怖い夢を見ることもある。あれは閉所と言えばいいのだろうか、〝広所〟と言えばいいのだろうか。真っ暗である。

床から天井まで35センチぐらいか。匍匐前進する以外に体を移動する方法がない。なんとかして周囲360度を見渡すと、その空間が四方に何キロも続いているらしく、地平線(?)が一条の細い白線になって見えている。這って行くと何日かかるんだろう。

あれは何かの刑罰だったのだろうか。目が覚めた時、あの夢ほど「助かった!」と思える瞬間はない。

・・・結構、怖い話でしょう? (だから読むなと言ったのに)

 

 

 

 

 

 

 

〝カルチャーショック〟の本質を考える

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きのう中米から帰ってきた。いやあ、大変でした。(ウソで~す。昔の話)

グアテマラ(写真左は染織物)に1週間、引き続きドミニカ共和国(写真右はそこいらのビーチ)に1週間という取材旅行をしたことがある。イケメンの写真部員と一緒だ。マイアミの空港で飛行機を乗り換える際、荷物だけがハワイかどこかへ行っちゃったりして非常に難儀したのを覚えている。珍道中だった。

イケメンというやつは、海外へ行ってもモテる。治五郎はスペイン語圏は初めてだったので、なんとか日本人通訳を見つけた(イケメンという程ではない彼も相当、面白い経歴の持ち主だった)。現地の女性に取材すると、相手は治五郎でも通訳でもなく岩佐譲カメラマンに向かって話すのである。(チキショー)

 グアテマラの話は別途するとして、ドミニカで驚いたのはハポン(日本)という国の知名度がゼロだということ。こっちも、ドミニカがどこにある国かは行くまで知らなかったんだから大きいことは言えないが、よく「ハポンまではバスで何日かかるのか」と聞かれた。

フリオという名の漁師と親しくなり、大きな伊勢エビを確か1匹70円ぐらいで2匹買った。相棒は旅慣れているから、小型まな板やナイフ、醤油、わさびなどを携行している。砂浜で舌鼓を打っていると、7~8人の子供たちに取り囲まれた。(信じられない、ナマで食ってる! なんという野蛮な人種なんだ!) あれほどの驚愕と蔑意に満ちた視線を、ワシは後にも先にも感じたことがない。

子供の一人について行くと、全員が兄弟姉妹だった。14歳の長女は他家へ嫁いで、もうすぐ母親になるという。(この辺はモンゴルの遊牧民と同じ)

親が日本の「食」に興味を示し、さすがにスキ焼やカレーを振る舞う用意はしていないので「緑のタヌキ」か「赤いキツネ」を皆で食べる。

スプーンを差し出された。食器(使い捨てのプラスチック容器とはいえ、食器は食器)に直接、口をつけてスープをすするなどという行為は「下品」なのだ。そのマナーを弁えない人種に対して、今度は蔑みというより憐れみの表情が浮かんでいた。(生まれてきて済みません)と日本人は己を責めるしかない。

【カルチャーショック】〔culture shock〕それまでに全く経験したことのない異文化に接して、物の考え方や生活様式・社会慣行の相違に強い違和感を感じること。文化(的)衝撃。

 違和感といえば違和感だし、衝撃といえば衝撃なんだけれどもワシの場合、こっちの側に身を置く方が案外、日本より生きやすいんじゃないか? と感じる傾向がある。

カルチャーの違いとは結局、何を「貧」と感じ何を「富」と感じるかの違いなのではないか。毎日、日本のニュースが伝える出来事を見聞すると、日本人は「富」を追求しすぎた結果、それと遠ざかっているような気がするが、治五郎の論理に従えば「それでいい」ことになる。

分からなくなってきました。

「賢人」と「大愚」

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プロローグとして、こういう場面を想像してほしい。

飛行機の中で急病人が出た。スチュワーデス改め客室乗務員(定着していた外来語が日本語に変わった珍しいケース)が、「お客様の中に、お医者さんはいらっしゃいませんか?」と尋ね回る。すぐに手を挙げる人はいないが、旧称スッチーも諦めない。

「あのう・・・」と、さえない初老男が手を挙げた。「ワシゃ岡山の在で医者をやっとる。泌尿器科じゃがのう」「専門は何でもいいんです医者なら。お願いします!」 その後どうなったか、治五郎は知らん。(似た場面を見た経験はあるが)

 

もしも旧称スッチーが「お客様の中に、賢人(けんじん=左の絵は竹林の七賢人=)の方は、いらっしゃいませんか?」と尋ねて回っていたら、どうだろう。窓際で寝ていた紳士が、目を覚ました。「賢人? 私を呼んでいるのか。はい、賢人です」

この大学教授は、政府の諮問機関の一つ「〇〇賢人会議」に向かう途中だった。自分が賢人であると名乗り出た瞬間に、この教授は死にたいくらいの羞恥心に襲われたに違いない。(ところが、そういう人ばかりではないのですね。むしろ、稀)

【賢人】判断力にすぐれ、その行為が道理にかなっている点で世間の人から仰がれる人。

(ワタクシなんかは、その対極に位置するダメな人間です。すんまへんな、堪忍やで)

「識者」とか「有識者」というのも、「賢人」と同じようなもんだろう。

有識者】それぞれの専門についての知識が広い上に経験も深く、大局的な判断が出来る点で社会の指導的地位に在る人。識者。

マスコミが「有識者が一堂に会した」などと言うのは構わないが、「私は有識者の一人です」と言う人がいたらどうだろう。ご尊顔を拝してみたくなるではないか。(ならない、ならない)

 

良寛=右の銅像の爺さん=は、自分のことを「大愚」と号した。

【大愚】どの点から見ても愚か者であること。また、その人。

宮沢賢治は、いつも静かに笑っている「デクノボー」になりたいと言った。

【{木偶}の坊】人の言う通りに動くだけで、自主的には何事をも為(ナ)し得ぬ人。〔侮蔑を含意する〕

アナタは、人から「賢人」や「有識者」と呼ばれたいですか? それとも「大愚」とか「デクノボー」と思われたいですか?

ワシなどは「どっちでもいいや」と思う。(これを「ただのアホ」言いまんね)

 

 

 

 

「世界の終わりの翌朝に」

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と題された、加藤龍勇画伯(54、通称カトちゃん)の近作である。縁あって、数日前から治五郎の陋屋に飾られている。どこがそう気に入ったのか、とお尋ねか(誰もお尋ねではない)。女の左肩に乗っている白猫(みたいなもの)だろうって? ブー。

この女の「目」だ。どちらかと言えば、右目よりも左目がいい。いっそ、伊達政宗みたいに右目を何かで覆った方が凄みが出ると思うが、そこまでは求めない。

この左目のどこがいいかと言うと、何も見ていないこと。虚空を見ているとか虚無を見つめているとか、分かった風な口を利いちゃいけないよ。「無い物」を見ている(すなわち何も見ていない)のだ。目は単なる視覚器官ではないということの証左。

そこに気づいたら、改めて白猫(みたいなもの)に目を戻そう。何か、さっきまで見えていなかったものが見えてくるような気がしませんか? (なに、全く何も見えてこない? だめだこりゃ。あなたとは今宵限り、お別れするかもしれません)

 

 

「やぎさんゆうびん」メール版

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〽しろやぎさんから おてがみ ついた

 くろやぎさんたら よまずに たべた

 しかたがないので おてがみ かいた

 さっきの てがみの ごようじ なあに

 

まどみちお作詞の童謡「やぎさんゆうびん」である。治五郎にとって、この白ヤギ=写真=と黒ヤギの手紙のやりとりは「他人事」ではない。酔って話したり聞いたりしたことの内容を忘れ、後で問い合わせなければならないケースが時々あるからだ。

(モンゴルの草原で、ワシが酒の肴に海苔を食っていたら、遊牧民に見とがめられたのを思い出す。「あんた、そんな黒い紙を食って平気か? ヤギじゃあるまいし」)

先月のサンド会で版画家のO野さんが、「モンゴル人にも翻訳で読んでほしい日本の短編がある」と語っていたというのだが、ワシには聞いた記憶がない。仕方がないので携帯メール(SMS)で問い合わせた。「その小説って何でしたか?」

それは芥川龍之介の「白」だという。さっそく読んだら、泣けた。「杜子春」を思わせる童話というか寓話なのだが、大抵のモンゴル人は猫が嫌いで犬が好きだという事情もあるから、主人公の白犬は強い共感を呼ぶに違いない。翻訳の必要がある。

黒ヤギさん、いやO野さん、ありがとう! と言っても彼はアナロギスト(パソコンに無縁な自分を悔いていない確信犯的アナログ人間)で、ブログ読者ではない。

このO野さんこと大野隆司画伯(66)のように、ネットの便利さを承知しつつも自らは決して受容しない頑固一徹のアナロギストが、ワシの周辺では異様に多い。もちろん、治五郎日記の存在など知る由もない。

やむを得まい。やむを得なければ、すなわち仕方がない。

旨いのに、なぜか食指が動かない料理

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沖縄のイラブー(海蛇)が少し苦手といえば苦手だが、普通のスーパーで売っている食品で苦手なものは一つもない、ということは前にも書いた。これは胸を張って(張らなくてもいいが)断言できる。むしろ「すべてが好物」というのが実情だ。

ところが中には、タイトルに掲げたような食べ物が存在する。思いつくままに列挙してみようか。ピザ=写真左=、肉まん、タコ焼き、お好み焼き、ホットケーキ、チジミ、肉団子=写真右=。どれも、たまたま食べれば毎回「うまい!」と感じるのだが、なぜか積極的に食べたいと思うことがない。これらの食品の共通点は何だろう? と考え続けること20~30年。ある日、忽然として悟った。

「味」ではなく「形状」に原因があったのだ。どういうわけか、治五郎は〝広がり系〟と〝丸まり系〟に、何か抵抗を覚えるらしい。おそらく心因性の障害だろう。

さらに深く考究するなら、治五郎が(甘いものにしては珍しく)熱愛するシュークリームね。あれは丸まり系だが、いつでも食指が動く。丸きゃダメ、ではないのだ。

とはいえ、あれが松井秀喜や〝元〟日馬富士の顔みたいな凹凸でなく、剛力彩芽ちゃんのようにツルンとした肌をしていたら、ワシはシュー皮の表面に歯を立てることが出来ないような気がする。凹凸ありゃこそ、シュークリームに平気でかぶりつけるのだ。

「食」の奥深さというのは、かような諸事情をも内包しているのではないだろうか。

 

 

算数と私

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【九九】一から九までの自然数どうしを掛け合わせた積を系統的に覚える時の唱え方。例、三八(サンパ)二十四。[室町時代までは、「九九八十一、八九(ハック)七十二・・・の順に唱えた]

へぇ、そうなんですか? 室町時代までは? いや勉強になります、新解の旦那。

 

今を去る60年ほど前、1歳下の妹が「2+2は?」と聞くので「4」と答えた。「4+4は?」「8」。「8+8は?」「16」。「16+16は?」「32」。

(中略)「512+512は?」「1024」。「1024+1024は?」「2048」。万単位になっても即答するもんだから、親は「この息子は天才かも」と思ったらしいが、かつての「神童」が「ただの人」になるまで、あまり歳月は要しないのが世の常だ。

小学校に上がって九九の表=写真=を暗記する頃までは順調だったのだが、間もなく転落が始まった。算数が数学になるともうお手上げで、中学以降も進学し続けることができたのは奇跡に近い。

サイン・コサイン・タンジェントなんていう言葉の響きは記憶にあるが、どういう意味だったかは、もう新海さんを引いても全く理解できない。

九九すらも怪しくなってきたのは、6×8=48歳ぐらいからだろうか。3×9=27や、5×5=25などは問題ないのだが、7×6、8×7あたりが「鬼門」である。

ややもすると両手の指を使おうとしている己に気づいて愕然とすることがある。(足の指まで動員せずに済んでいることを、以て多とすべきであろうか)