今こそ「JB放送」の構想を明かそう

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スポーツ新聞のコラムか何かで、こういう話を読んだ。高齢の歌手(元)に会ったら、最近はBS以外のテレビを見ていないと言う。「ゴールデンタイム(午後7時~10時)の地上波番組は若い人が騒いでいるばかりで、何が面白いのか理解できませんから」

もっともな話である。治五郎はその歌手(元)より10も20も年下だが、同感だ。その時間帯にBSが何をやっているかというと、目立つのが「昭和歌謡」関係。高齢になって終日、ボーッとテレビでも見ているしかない世代が激増しているのだ。

この傾向は加速するだろう。なにしろ若者が減って年寄りは増える一方なのだから。そこで、治五郎プロデューサーに「JB放送」というアイデアがある。高齢者専門のチャンネルを新設するという大胆な構想である。

その理念を説明するより、ある日(平日)の番組編成案を例示した方が早かろう。

17:30 鉄腕アトム=写真①=

18:00 ニュース(生)

18:30 歌は世につれ 美空ひばり=写真②=編

20:20 天気予報

20:30 昭和の名勝負 大鵬 × 柏戸=写真③=編

21:15 懐かしの銀幕 「青い山脈」=写真④=

あんた、そこで笑ってるけどねえ、これは超高齢化社会が進めば進むほど結構、視聴率を稼ぐようになると思うんだよ。

ところで「JB」とは何の略かって? もちろん「じじばば」ですよ。

 

 

 

 

セリとジャンケン

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春の彼岸にしては寒い日が続くので、今季最後と称して鍋物が食いたくなった。水炊き(のようなもの)にしようと鶏肉や野菜、豆腐などの材料を用意した(用意してもらった)のだが、何か一つ足りないような気がする。なくてもいいけれど、香りや彩りを考えるとあった方がいいもの・・・何だろう。セリ=写真左=だ。

セリなら歩3分の八百屋(個人経営ではない)で売っているが、冷たい雨の中をセリ1把のために出かけるのは正直、面倒だ。

じゃんけんしかないな、という合意が暗黙のうちに成立した。じゃんけんぽん! チョキとチョキで、あいこだ。次は熾烈な心理戦の末、ワシが再びチョキを出すと、相手はグーで来た。やんぬるかな。

【已んぬる哉】〔「やみぬるかな」の変化〕決定的な最悪の事態に至るのは今さらどうすることも出来ないという嘆きを表わす語。

傘を差して、セリを買いに行く。2把で税込148円だった。水炊き(のようなもの)が香りも彩りも味もグンと引き立ったことは、言うまでもなかろう。

ずいぶんドメスティックな話題になった。セリを買って帰る途中、かつて親しくなって谷中の宴会にも何度か来てもらった歌手・芹洋子さんを思い出した。夫君(事務所の社長)や娘さん(マネージャー)とも面識がある。

久しぶりに会ってみたい気もするが、ワシは目下、ジャンケンに負けてセリを買いに行く身じゃけんのう。(今の境遇に後悔や反省は全然ありませんけどね)

 

 

 

東西南北の概念は、これで本当に正しいか?

 

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「治五郎はまた何を言い出すんだ?」と思うだろうが、まあ我慢して聞きなさい。文明論的に見て我ながら、なかなか価値のある話題が展開されそうな予感がするのだ。

上に図示された方位に対して、異を唱える人はいないだろう。上=北、下=南。従って右=東で、左=西。

しかし、北と南の位置を逆にして見たらどうなるか。右=西で左=東になるのではないか。(当たり前だろう、それがどうした? と人は言うだろう)

フッフッフ。(不敵な笑み)

この方位は全世界共通のものであって、どの国の地図でも「北は上」と決まっている。しかし、そういうルールが出来る前から、人類が身体感覚としてこの方位図を共有していたかどうかとなると、実際は上下左右が逆だったのではないかと思われる(少なくとも日本とモンゴルに於いては)。では、それを証明して進ぜよう。

モンゴルへ行くと、ゲル(移動式住居)の入り口は必ず南に面している。これはもう例外なく、そう決まっている。住人がゲルの扉を開けて外に出れば正面が北で、左が東、右が西だ。

だから言葉もズーン(東=左)、バローン(西=右)、ウムヌ(南=前)、ホェト(北=後ろ)と、同じ単語を使う。自分が常に北に立って南を向いているという、この方位感覚は身にしみついている。

日本ではどうか。京都へ行くと(行かなくても)誰もが気づくように、地図の左側に右京区があり、右側に左京区がある。これは北にある御所から見た方位だからだ。

テレビの大相撲中継は「正面」にカメラを置いている。これは、審判長の親方が座っている北側が正面だからで、行司の立っている南側は「向こう正面」と呼ばれる。北から南を見ているので当然、「東方(ひがしがた)力士」は左から土俵に上がり、「西方力士」は右から上がる。東=左、西=右という、地図とは正反対の方位認識が、日本の国技には昔から根付いているわけだ。

北に立って南を向く。この北東アジアに顕著な方向感覚が、モンゴル人の体内では今も脈打っているのに対して、日本人の間ではそれが失われて久しい。大相撲の世界で昨今、なぜモンゴル勢の力が突出しているかというナゾを解く鍵が、実はここに存在しているのである。

う~む、快刀乱麻とはこのことだろうか。

【快刀】すばらしく切れる刀。「-乱麻を断つ〔=むずかしい事件や問題をあざやかに解決する〕」

(治五郎という老体、やはりただの酔っ払いではなかった。なに、「今の話なら私だって昔から感じていた」ですって? 恐れ入り谷の鬼子母神

 

 

 

 

「えこひいき」や「えりごのみ」をしない者の悩み

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【依怙贔屓】自分の好きな人や関係の有る人だけを特に ひいきにすること。

【選り好み】〔多くのものの中から〕好きなものだけを選びとること。より好み。

 つねづね申し上げておりますように、治五郎は「みんな違ってみんないい」という信条の持ち主なので、食べ物に限らず動植物でも人間でも(♂♀を問わず)、よほどのことがない限り「毛嫌い」ということを致しません。決して好きとは言えない対象であっても切り捨てず、どこかにいい点はないか、辛抱強く探そうとする傾向がある。

こういう性格だと、困るのがスポーツ観戦。個人競技でも団体競技でも、どちらかを一方的に応援するということが出来ない。巨人には巨人の、阪神には阪神のいいところがある。阪神が優勝したら裸で道頓堀に飛び込むようでないと阪神ファンではないと言われるが、ワシにはそういうマネが出来ないのだ。

小学校の運動会で、父母や担任と違って一つの学級だけに肩入れできず、「赤勝て、白勝て」と叫ぶしかない校長先生の気持ちが忖度される。加えて、日本人なので「判官びいき」という本能も働き、強い方には「何もワシまで応援しなくてもいいか」と、つい弱い方に味方したくなる。こういう人間にスポーツ観戦は向かないと思う。

悩みを抱えながら、今日も大相撲中継=写真は逸ノ城と遠藤=の取組を序の口から見ているワシとは何だろう。

 

「ら抜き言葉」にどう対処するか

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ら抜き言葉】「見れる」「起きれる」「出れる」「食べれる」などのように、可能の意を表わすのに、「見られる」「起きられる」「出られる」「食べられる」の「ら」を脱落させた表現形式。規範を重視する立場からは、誤用とする向きが多い。

治五郎は「規範を重視する立場」で、自分では「ら抜き言葉」を使わないように心掛けているが、相手の「誤用」をいちいち指摘するほどのウルサ型ではない。地下鉄で「出れません」という表示=写真=に遭遇しても「アッ、その『出れません』は『出られません』に直して下さい」とは(言いたくても)言わない。

国語学界の趨勢も、ら抜き言葉に対して「言葉は時代によって変わるもの」と鷹揚なようだ。わが新解さんも「誤用とする向きが多い」などと、あまり深入りしない方針のようだが、さすがに文法上の説明を忘れてはいない。

〔本来、上一段・下一段活用動詞の可能表現の形式は、「動詞未然形+助動詞『られる』」であるが、五段活用動詞の可能動詞形「読める」「飛べる」などからの類推によるものと考えられる〕

しかし動詞の活用なんちゅうものは普通、受験期が終われば忘れるものなので、ら抜き言葉は広がる一方だ。(面白くないが、仕方がない)

面倒なのは、これを新聞やテレビがどう扱うかである。マスコミは「規範を重視する立場」なので、記事や放送で「ら抜き」を使うと苦情が来る。しかし取材相手が口にした言葉を、その場で正すわけにもいかない。NHKのインタビューなどを見ていると、相手が「出れなかった」と言ったのを字幕でさりげなく「出られなかった」に直すなど、姑息な手段で規範を守っているのが痛々しい。

いつまで続けられるんだろう。新聞記者もテレビキャスターも、つい「ら抜き」を使うことが多い。 言葉の世界でも「悪貨は良貨を駆逐する」が避けられないようだ。

 

「寅次郎 紅の花」とスマホ

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「珍しいな。今日は『サンド会に参加します』という電話やメールが1本もない」

「ビールもおつまみも用意しちゃったから、じゃ、二人で宴会ということに」

てなわけで6時半から、BSジャパンが土曜日に放送している寅さん映画を見ながら缶ビール(ロング缶)をプシュッと開けチビリチビリ、いやグビグビと飲み始めた。

【ちびりちびり】少しずつ何回にも分けてその事を繰り返す様子。

【ぐびぐび】のどを鳴らして酒を飲む様子。

全48作に及ぶ「男はつらいよ」も、今夜が最終作「寅次郎 紅の花」=写真=である。マドンナの「リリー」役は何回も出演して好評を博した浅丘ルリ子。闘病中だった渥美清は体調がきつそうで、見ていても心が痛む。(ファンもつらいよ)

「これは確か1995年の作品だ。俺は1996年の8月初旬に2度目か3度目のモンゴルから戻って関西空港に着いたんだ。すると」

渥美清が死んだというニュースを聞いたんでしょ。もう10回以上、聞きました」

「・・・」

夫婦の会話が行き詰まっているところへ、後輩の松本記者(♀)が来てくれた。

「この老女優(リリーの母親役)は誰だっけ」「千石規子

「このタクシー運転手(犬塚弘)も死んじゃったんだっけ」「いや、生きてます」

松本記者が何にでも正しく答えられるのは、手に持ったスマホのお陰。ワシと同じでいまだにガラケーを所持する妻は近々、スマホに替えそうな気配である。

 

 

「点と線」でも泣くジジイ

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松本清張「点と線」は、若き日の治五郎が過去に最速で読み終えた記念碑的な小説。時代の波に流されて本格派「探偵小説」から社会派「推理小説」へと、ワシの読書傾向が転換し(いま思うと)誤った道を長年、突き進むことになった元凶でもある。

2007年にテレビ朝日がかなり力を入れて作ったドラマ「点と線」=写真=は、たぶん2度は見ているのだが、BS朝日で「一挙放送‼」しているというもんだから約5時間、また見てしまった。

原作は涙が出るようなストーリーでは全然ないのだが、このドラマには(ワシの涙腺が緩んだせいで)たっぷり泣かせてもらえる。事件の背景と人物像が細部まで丁寧に描かれていることと、主演のビートたけし以下の演技力の賜だろう。(若い男女の老後を演じた宇津井健池内淳子が、この何年間かで故人となった影響もあるかな)

いわゆる「アリバイ崩し」の古典的傑作とされるが、新幹線もなかった時代の犯罪と捜査なので「んもう~、じれったいな!」感は免れない。しかし、結末を百も承知で見ても退屈しない。社会派ミステリーの隆盛には、それなりの必然性があったのだろう。

清張という作家は、ワシに言わせれば〝性悪説〟の権化みたいな人だった。「政治家と官僚の世界を、そこまで悪意に満ちた視線でとらえなきゃならないもんだろうか」と思ってしまうのだが、そこが治五郎の甘いところ。ワシには不正を暴けない。

折しも「森友文書」を財務省が書き換えていた問題で、自殺に追い込まれた役人も現にいる。清張流の「みんな違うが、みんな悪い」が正しいようにも思えてくる。

(まだもう少しの間、ワシは「みんな違って、みんないい」の路線で行きたいんじゃがのう)

灯りはぼんやり 灯りゃいい

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お酒はぬるめの燗がいい(冷やして飲む方がうまい酒も多いが)。女は無口でなくてもいいが、おしゃべりなのは嫌だ。八代亜紀舟歌」の詞(阿久悠)には大体、共感できる。

夜道を歩いていて人家の玄関前を通ると、通っただけでパッと電気(防犯灯)がつくことがありますな。あれは、あまり気分のいいものではない。何もやましいことがないのに、(私はこの家の住人に泥棒ではないかと疑われているのか)と思ってしまうではないか。

人感センサーとか言うらしいが、どういう仕掛けになっているものやら、機械が人間を(無断で勝手に)認知し、いきなり点灯するのである。治五郎としては面白くない!

その治五郎が、こともあろうに人感センサー付きLED照明器具=写真=を買った(正確には、買ってもらった)。写真のより小型で、明るさを落とせる。

むろん防犯目的ではない。うちの賃貸物件は玄関を入ると畳1畳分にも相当する長大な廊下があって、ちゃんと電灯だって点けられるのだが、夜中に居間を出てトイレへ行くには、真っ暗な中でスイッチを手探りで探さなければならず、酔っていると転んで下駄箱の角に頭を強打するような事態が容易に想像される。それで、買った(買ってもらった)次第。

灯りは最小限の明るさに設定してあるが、これで転倒・重傷の惨事は防げる。手のひらを返したように、今は人感センサーに感謝している治五郎なのである。

 

「相撲」と「相棒」に関する諸問題

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【相撲】〔土俵の中で〕二人が、力や わざによって勝負を争う競技。土俵の上で、まわしをつけて取り組み、相手のからだを地につけるか、土俵の外に出すかすれば勝ちとなる。

治五郎が、例によって辞書(新解さん)を「読んで」いたら相撲の定義があった。まあ納得できる説明だが、あと3~4字を削ったり増やしたり、もう少し推敲を重ねてほしいような気はする。例えば〔~の中で二人が〕と言った場合、普通は男女を想像するのではないか。辞書は余計な誤解・妄想を抱かせてはいけない。

夕刊が届いたので、TV欄を見たら「相撲~最終回SP」(テレビ朝日)とある。変だな。大相撲春場所はまだ序盤じゃないか。

 「相撲」ではなく「相棒」であることに気づくまで、ものの2秒も要しなかった(2秒要したら十分か)。「相棒」というドラマ=写真=が好評を維持してきたのは知っているが、あまり見たことはない。見る見ないは〝縁〟に左右されることが多いらしい。

水谷豊(65)という俳優は、ワシと同学年だから「巨人・大鵬・卵焼き」の世代。個性的な俳優だが、この人ともほとんど縁はなかった。彼(が演じる人物)の何かが、ワシとあまり相性が良くないのかもしれない。

角界(序の口)で大鵬の孫(納谷)が注目を集める時代だから、65歳の初級高齢者にも孫がいて当然。見間違い、聞き間違いも自然と多くなる。相撲と相棒を読み間違えたくらいで非難するのは酷というものであろう。

「後は野となれ山となれ」という思想

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ヤホーで「野山」を画像検索すると(えっ、Yahoo はヤフーって読むの? お笑いコンビ「ナイツ」の塙クンの真似です)、最初にこれ=写真=が出てきた。しかし今は野や山の話がしたいのではない。

優れた辞書とは「調べる」ものではなく「読む」ものだ、というのが治五郎の持論なので、暇な時に新解さんを読みだすと急に忙しくなる。難しい言葉より「水」とか「女」など、子供でも知っている簡単な言葉の方が、読みごたえがあるようだ。

【後】の項を読んでいると、「運用欄」に【ーは野となれ山となれ】が載っている。

【ーは野となれ山となれ】当面の事さえ済めば、後はどうなろうとかまうことではない。

「当面の事」って何だろう、と気になってくる。この言い回しを、ワシは「我が亡き後に洪水よ来たれ」と同じような意味に解釈してきたのだが、少し違うのだろうか。

そこでウィッキーさん(Wikipedia)に相談してみると、ルイ15世の愛人がどうしたとかマルクスの「資本論」がどうだとかいう面倒な話になる。(ほら、急に忙しくなってきたでしょ?)

 新解さんには「-〔=死んだあとのこと〕を頼む」という用例も載っているので、複合的に解釈すれば「自分の人生と言う当面の事さえ済めば、後は野になっても山になってもいいし、洪水が来ても構わない」ということになるだろう。

ずいぶん勝手なことを言ってくれるじゃねえか! と腹を立てる向きもあろうが、そう決めつけるのもいかがなものか。

「終活」ブームとやらで、自分が死んだら葬式はどうする、墓はどうする、香典や花輪は・・・と何十年も頭を悩まし続ける高齢者が多いようだが畢竟、誰かに「後を頼む」しかないのが人間だ。

その点、ワシのように財産もなく借金もない者は身軽である。後は野となれ山となれ。死後にどうしてほしいという考えは何もありませんね。(死体を都電で運んだりするのはやめてほしいが)