小林秀雄と田河水泡

f:id:yanakaan:20190204194221j:plain f:id:yanakaan:20190204194348j:plain

次の文章の誤りを正しなさい。(高校受験レベル)

<妻が愛読し始めたもんだから影響を受け、かねて「批評の神様」呼ばわりされてきた小林秀雄(1902~83)=写真=を読み直している。これが滅法、面白いんだ。>

もちろん、誤りは「―呼ばわり」にある。

【呼ばわり】(造語)〔「大声で呼ぶ」意の動詞「呼ばわる」の連用形の名詞用法〕いかにもそうであるかのように ずけずけ言うこと。〔名誉な事については言わない〕「泥棒ー」

連用形の名詞用法というのはよく分からないが、とにかく名誉な事については言わないのである。(辞書で肝心なのは、こういう〝お節介〟ではないだろうか)

治五郎は若い頃、小林秀雄をよく読んだとは言えない。大学入試に出る出ると言われるもんだから反発を感じ、敬して遠ざけてきた節もある。 高校時代などは読めない漢字も時々あって、(もっと読みやすく書けやい!)とイライラしたものだ。

それが、今はどうだろう。スラスラ読めるのである。意味が分からないという個所は、ほとんどない。年は取ってみるものだ。(それで何かいいことがあったかというと、何もない。ワシも少しは利口になってきた、という自己満足だけである)

んーっと、それがどうしたんだっけ。あ、田河水泡(1899~1989)だ。この漫画家は戦時中、「のらくろ」シリーズ=右絵=で軍国少年たちを夢中にしたものだ。(むろんワシは世代がズレるから「一応、知っている」という域を出ない)

 この田河水泡は、小林秀雄からすると妹の夫だから、年上ながら「義弟」に当たる。小林の随筆に「漫画」という小品があって<私は、弟の仕事に、大した関心も持っていなかった>と言うから(ははあ、身内の自慢を始める気だな)と思ったのだが、違った。

ほんの「小上がり」だと思って入った座敷が、奥が見えないほどの大広間だったとでも言おうか。

【小上がり】〔すし屋・小料理屋などで〕いす席とは別に、座って飲食出来るようにした畳敷きの客席。

 わずか数ページの「漫画」には、分厚い漫画論にも匹敵する内容が盛られていると感じた。有名なエッセー集「考えるヒント」(文春文庫)の1冊目に収められているから、御用とお急ぎでない人は本屋で立ち読みしてみて下さい。

 

治五郎シェフの小さな悩み

f:id:yanakaan:20190205110121j:plain f:id:yanakaan:20190205110204j:plain

 

その辺の奥さんは、どう解決しているのでしょうか? そう、パセリ=左=とレモン=右=の問題です。(逃げないで、どうか一緒に考えてみて下さい)

例えば「今夜はポークソテーにしよう!」と一大決心したとしましょう(溶き卵を使ってポークピカタにしても可)。すると「付け合わせ」というものが必要になりますね。

【付け合わせ】肉・魚の料理に添える野菜や海藻など。

まあ、キャベツの千切りやミニトマトあたりが無難な定石なんでしょうが、もうちょっと何か「色」というか「彩り」が欲しい。いつものスーパーに行けばパセリやレモンが置いてあるわけですが、それを買う前に多少の「ためらい」を私たちは等しく感じますよね。(私たちって誰よ)

こんなパセリ1束、レモン1個を買ったら夫婦二人で消費するのに何日かかるだろう。きょう一晩、ほんのひとつまみあれば十分なのに、毎日食っても2週間は要するに違いない量だ。パセリなんかパサリになる(そんなの毎日食えるか)。そこを考えるから、私たちはパセリもレモンも(泣く泣く)棚に戻すしかないのです。違いますか?

だからどうしたとか、どうすべきだとかいう話ではありません。今宵は梶井基次郎の名作「檸檬」でも読んで、静かに寝ようという結論になるわけですね。

 

「ぞっとする」のか「ぞっとしない」のか

f:id:yanakaan:20190202094359j:plain

こんな文章があったとしよう。

<先日いわゆる「あおり運転」=写真=に遭って、ぞっとした。こんな危険行為が事実上、野放しになっている。この現実は、ぞっとしない。>

ヘンじゃないか? ぞっとするのか、ぞっとしないのか。どっちか一つににしてほしい! と、例のドイツ青年は強く訴えるのである。いやあ、別にヘンじゃないよ。

ぞっと ㊀恐怖や不快感から、思わず鳥肌が立つ感じがする様子。「逃げるのが一瞬遅れていたらと思うとーする」㊁〔「ーしない」の形で〕「どこから見ても積極的に評価できないと感じられる様子だ」の意の口語的表現。

目鼻立ちのいい女性の化粧が濃すぎたりすると、私たち日本の男(中年以上)の多くは<ぞっとする>ほどではないけれど<ぞっとしない>のです。鳥肌が立つような恐怖や不快感はないが、どこから見ても積極的に評価できない。

外国人の皆さん。日本語の機微に触れる学習のためには、やはり新明解国語辞典新解さん)が手放せませんよ。(また三省堂の宣伝をタダでしてしまった)

浅野内匠頭は心神耗弱状態だったのか?

f:id:yanakaan:20190131052754j:plain f:id:yanakaan:20190131051625j:plain

滋賀県彦根市の交番=写真①=で昨年4月、上司の巡査部長(当時41歳)を射殺したとして殺人罪と銃刀法違反(発射、加重所持)に問われた元巡査(20)(当時19歳、懲戒免職)の裁判員裁判が終盤に差し掛かっている。

検察側と弁護側の主張を総合すると、大体こんな事件像が浮かんでくる。教育熱心だがネチネチと部下をいたぶる上司に対して、我慢し続けた若者が、親の教育責任にまで言及されたことの屈辱に耐えきれなくなってキレた。(上司像には異論もある)

かつて事件記者を経験したこともある治五郎は(報道の当事者ではなくなったので)、いろんな連想をするようになってきた。

撃たれた上司を吉良上野介、撃った巡査を浅野内匠頭に置き換えると、事件の全体図は非常に分かりやすくなる。日本人が何百年来、愛してやまない「忠臣蔵」の発端とされる「松の廊下」事件=写真②=。(分かりやすくはなるが、思い込みは禁物)

今回の交番事件では、弁護側が被告の「心神耗弱状態」を主張しているという。浅野内匠頭はどうだったのだろう。(統合失調症だった、などの説も最近はある)

吉良巡査部長にとって不運だったのは、浅野巡査の使った凶器が脇差ではなく拳銃だったことと「浅野殿、ここは殿中(いや交番内)でござるぞ!」と羽交い絞めにして止める同僚が現場にいなかったことだ。(この同僚は吉良巡査部長を「そう恨まれるような人ではなかった」と証言しているらしく、だから人間関係は難しい)

どっちみち現代であれば、浅野さんは「即日切腹」ではなく「殺人未遂で懲役三年。ただし情状を酌量して執行猶予四年」ぐらいになったろう。しかし、それだと「忠臣蔵」という膨大な物語世界は生まれようがない。

(ワシなんかが今ごろ言ったって、しようもない話なんですけどね)
   

 

日本の「元号」は今後、どうなっていくか

f:id:yanakaan:20190126024550j:plain

実は、もう決まっているらしい。「平成」の次の元号。それを記した1枚の紙が首相官邸だか宮内庁だかの奥深く、厳重な警備のもとで金庫に保存されているのだという、まことしやかな噂も流布している。

お断りしておくが、治五郎は「元号不要」論者である。若い頃はともかく、年を取ると使い分けが面倒でたまらん。自分が退職・離婚・再婚に見舞われたのは確か2013年だったと記憶しているが、それが平成何年のことかと聞かれれば、両手の指を使って足し算や引き算をしなければならない。迷惑だ。

これから激増する在日外国人にとっては、もっともっと迷惑だろう。

入管で「あなたの生まれた年は?」「1981年です」「それを元号で言うと?」「はい、昭和56年です」。こんな会話は、例えば大相撲の錦島親方(元・朝赤龍)だから出来るのであって、普通の外国人に「ショーワ」や「ヘーセー」は何の意味もない。

新しい元号は今年の4月1日(エイプリルフール)に発表され、5月1日から運用されるんだそうだ。大丈夫だろうか。すっぱ抜いてやろうと文春や新潮の記者が、事情を知る関係者(命名に関わった学者や政治家、官僚ら)に鵜の目鷹の目で取材中のはずだ。

元号名としては<文春>も<新潮>も悪くはないと思うが、どちらも絶対にありえないだろう。もっと「ありえない」元号ながらワシは<珍満>を推奨したいのだが、やはり無理かなあ。チンもマンも、音の響きは(どちらかと言えば)平和で健康的だし、漢字も本来はメデタイ系なんだが。え? やっぱりダメ?

「珍満元年」! いいと思うんだけどなあ・・・

 

治五郎親方の大相撲初場所「総評」ならぬ「雑感」

f:id:yanakaan:20190128041313j:plain

待ちに待った(ではなく、もう来てしまった)千秋楽。午前中からネット中継で観戦していたら、2時過ぎに電話が鳴った。若い女の声だ。

「ナンタラカンタラ(給湯設備会社)の鈴木と申します。今やっている工事に手間取っているので、伺えるのは3時ごろになります。すみません」「な~んもだ」

こんな(声の)かわいい娘が、日曜日に工事で都内を駆け回っているのか。来たら、作業中に熱い茶かコーヒーぐらいは出さねばなるまい(自販機のでいいかな)。

来たのは、男だった(けっこうイケメン)。テキパキと老朽器具を修理する(というか取り換える)手際がいい。感心しつつ、しかし自販機まで行くのが面倒になった。

 何の話だっけ? あ、初場所だ。大関以上が壊滅状態の今場所で、また伏兵(モンゴル人の関脇・玉鷲)が優勝をさらった。彼はボキャブラリー(語彙数)が今いちだが、相撲に臨む姿勢や性格に問題はない。素直に「おめでとう」と言いたい。

今場所で考えさせられたのは、親方との「師弟関係」だ。親方自身は優勝した経験がないどころか三役にもなれずに前頭どまり。そういうケースは結構、多い。「強くなるには」とか「優勝前夜の心構えは」と言える立場にはないのだ。

どの部屋の誰とは言わないが(言ってるも同然)、いまだにパッとしない〝大器〟逸ノ城の親方などに、ワシの不満の矛先が実は向かっているわけだ。

(いや、もう、よかとです。総評じゃなく雑感ですけん)

 

 

川の水を汲んできて体を拭く生活

f:id:yanakaan:20190125185130j:plain

風呂もシャワーもない環境で肉体の清潔を維持するにはどうするか?

任せなさい。近くの川=写真=へ行って水を汲んでくる。大きなヤカン(金属の洗面器でも可)で湯を沸かして適当な温度に薄め、体を拭くのである。川の水が凍っている場合は、割った氷を持ち運ぶ(この方が運びやすい)。

治五郎は38歳の時、そういう暮らしをモンゴルで3カ月ほど経験した。人間の生体というものは、たまに洗わないと異臭を発するように出来ているので、せめて温水で拭かないとシュラフ(寝袋)に入るたびに自分の体臭で失神しそうになる。

なぜ昔の体験を思い出したかと言うと、わが現住居の給湯設備が故障したらしく、入浴中に突然、湯が水になるという事態が続いたから。ワシは2~3週間ぐらい体を洗わなくても平気の平左だが、女はそうもいかないのだろう。

妻(モンゴル人)が管理会社のY不動産に電話で交渉したところ、築30年だかの当マンション(賃貸)はあちこちガタが来ているらしく、給湯器を取り換えるという言質を得た。ガス会社が見積もりに来たのはいいが、その後が進捗しない。

再び電話したら「今度の日曜には工事に行く」ということになった。幸い水道には問題ないから、近くを流れる隅田川まで水を汲みに行く必要はないが、いくらモンゴル人でもヤカンの湯を頼りにしなければならない生活は大変だろう。

日曜日よ早く来てくれ! (ワシゃ平気だけどね)

 

 

 

こいつァ春から縁起が悪い

f:id:yanakaan:20190122222209j:plain ②f:id:yanakaan:20190122222248j:plain ③f:id:yanakaan:20190122222342j:plain ④f:id:yanakaan:20190123072321j:plain

大相撲初場所の話だ。

初日から3連敗した横綱稀勢の里が引退を余儀なくされたのも、今は昔。先週の出来事とは思えないほど遠い思い出となった。横綱鶴竜大関栃ノ心も相次いで休場。残りの2大関は勝ち越すのも難しそうで、また白鵬 の独走だ。

と思っていたら一昨日と昨日は2連敗で、終盤の優勝争いが少しは面白くなってきた。

それにしても、今場所は引退と休場が多すぎる。十日目(22日)には、関取の古参・豪風=写真①=が39歳で引退を表明。この人は水も滴る美男子とは逆のタイプだが、明るい性格とマジメな取り口で人気があった。

同じ日に、水が滴るかどうかは知らないが前頭の千代の国=②=と琴勇輝=③=が膝を痛めて車いすで運ばれ、そのまま休場。幕下の人気者・宇良=④=などは、せっかく1年がかりで大怪我から回復してきたのに、また深手を負った(もうダメかもしれん)。

力士の平均体重が増える一方の角界で、大怪我を無くする方法は幾つか考えられる。例えば俵や土俵全体をゴム製にするとか、ボクシングやプロレスみたいにロープを張り巡らすとか。

しかし、それはあり得まい。相撲というものは「前近代の象徴」と呼ぶべきスポーツ&神事なのだ。ちょんまげ、まわし・・・ヨレヨレの爺さんやピチピチした女子を等しく引き付ける理由の基は、そこにこそあるだろう。

引退と休場の続発。どうも、今年は春から縁起が良くないぞ。

 

ものごとは鵜呑みにすべからず

f:id:yanakaan:20190120011830j:plain

【鵜呑み】〔鵜が魚を丸呑みにすることから〕食物の丸呑みや、人の言葉の真偽などをよく考えず、そのまま受け入れる意などを表わす。「―にする」

治五郎が愚考するに、SNS時代に頻発しているネット「炎上」事件の多くは「鵜呑み」に起因する。書く側が、思い付いたことをよく推敲もせず(一時の感情に任せて)公にする。それを鵜呑みにした読者が反発したり共感したりする。 

「鵜呑み」の反対語は何かといえば、ピッタリの日本語はなさそうだ。リテラシーという英語の力を借りるしかないのが現状かもしれない。

リテラシー〔literacy〕㊀読み書き能力(の程度)。㊁その時代を生きるために最低限必要とされる、素養。昔は、読み・書き・そろばんだったが、現代では情報機器を使いこなす能力だとされる。「コンピューターー」

ワシが付した下線部分に、新解さんの私情(不満)が微かに見て取れよう。

言語学者柴田武さん(1918~2007)は畏れ多くも、わが新解さん新明解国語辞典の編者の一員であらせられるから、生前に表敬取材したことがある。「息子に『里程』と名付けました。リテラシーです」。没後、その里程さんに会って追悼記事を書いたことは言うまでもない。

メディア・リテラシーという言葉も最近、少しは知られるようになってきたようだ。しかし、まだ国民全体の1~2割だろう。情報機器を使いこなす能力のない爺さん婆さんは、新聞やテレビのCMなんか鵜呑みにしちゃいけないよ!

〽 立ち去る者だけが美しい

f:id:yanakaan:20190117041837j:plain

中島みゆき「わかれうた」の一節である。「恋の終わりは いつもいつも」に続く歌詞であるからには、きっと「死」や「引退」ではなく「失恋」がテーマだろう。みゆき姐さんが最も得意とする「フラれ女の嘆き節」だ。

が、立ち去った人こそが美しく感じられるという現象は、新聞を読んだりテレビを見たりしていて誰もが実感するのではないだろうか。

 日本のマスコミには妙な風習があって、死んだ人や辞めた人のことを決して悪くは言わない。必ず「惜しい人が去った」ということになるのだ。褒める以外の言葉がない。

3連敗した横綱稀勢の里に対して、前夜までは「見苦しい」「今ごろになってやっと引退か」という辞めろコールが大勢を占めていたが、朝に引退を表明して午後に記者会見が行われると、もらい泣きしながら「本当は偉い横綱だったんだ!」と急に見直したりする。(かく申す治五郎親方も例外ではない)

哲学者の梅原猛(93)とか女優の市原悦子(82)とか、今週は何人もの訃報に接した。梅原先生とは、京都で何時間も話し込んで大いに触発された覚えがあるが、梅原さんや市原さんと親しかった人々が「まさか」と驚いているのを知って、65歳のワシは本当に驚いた。一体いつまで生きて死ねば人は「驚かない」のだろうか。

 治五郎の予感は当たらないので有名だが、今年は元号が替わる4~5月までに「立ち去る者」が増えるのではないだろうか。むろんワシ自身が立ち去る可能性だって、大いにある。(なかなか当たらねえんだ、これが。美しくねえなあ)