起承転結の承

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 <沖縄、特に石垣・西表・竹富・波照間など八重山の島々を訪ねるたびに「モンゴルに似ている」と感じた。島と草原では対照的に思われるだろうが、海=草原、舟=馬なのだ。水平線(地平線)の彼方から現れる未知の人は「天が遣わした客」だから厚く遇する。

 モンゴル初体験の翌1992年、社会部から異動した日曜版編集部(当時)は〝旅の宝庫〟とでもいうべき職場で、主に国内だが企画取材のため年に何十回も各地へ出かける機会に恵まれた。もったいないという言葉や「恥を知る」感覚、先祖や高齢者への畏怖の念。急速に失われつつある「日本人の心」は、辺境といわれる地ほど生き残っていた。日曜版が文化部と合併した95年以降も旅は続く。

  土地ごとに受け継がれてきた「幾つもの日本」と出合った。童謡、子守唄、民話、方言、地名、伝統芸能……放っておけば消えてしまうそれら文化遺産の保存に取り組む人々は、地方に限らず東京にもいる。彼らとの出会いに、記者稼業の醍醐味を感じた。(顕)>(2007年3月27日付)

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沖縄と言えば昨夏、モンゴルから沖縄へ研修に来た高校生グループの通訳として、義妹バルジンが何週間か同行し、ヘトヘトになりながらも「沖縄は、いい!」とハマっていたのを思い出す。

今年も姉夫婦の部屋に2か月ほど同居した彼女。今年は、どこへも行かず焼き鳥店@下赤塚でのバイトに専念したが、今日の飛行機で帰国するので今、土産の荷物をまとめるのに姉妹でテンテコマイだ。

2007年の段階で、ワシがこの事態を予想し得たであろうか。否! 人生は分からない。

 

起承転結の起

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<見えるものは満天の星だけ。人家などないモンゴルの大草原を、4台の四輪駆動車に分乗して目的地へ向かった。4月でも零下20度。泥濘にはまって時間を消費したため、ガソリンが切れれば命にかかわる。1991年、38歳。生まれて初めて「死」を覚悟した。

 深夜、村で唯一の宿泊施設にたどり着いたが「満室」と言われて皆、へたり込んだ。すると先客一行が一室を譲るという。高名な映画監督が率いるロケ隊に翌朝、口々に礼を言うと不思議そうな顔をされた。「当たり前のことをしただけなのに」

 この国では「困った時はお互いさま」「情けは人のためならず」という、日本ではあまり聞かれなくなった言葉が完全に生きている。驚きだった。

 見知らぬ外国人を精いっぱい歓待する遊牧民。幼時から親の仕事を手伝い、アメ玉一個をもらう時も両手で受け取る子供たちーー。社会主義時代の最末期に取材で3か月を過ごした「草原の国」は帰国後、記者がすべき仕事を星明りのように照らし出した。(顕)>(2007年3月26日付)

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「その話なら前にも読んだ」というブログ読者もいるだろう。こらえてつかあさい。

後輩記者の原稿をチェックする毎日でストレスがたまる文化部デスクたちが、毎週交代で書きたいことを勝手に書く「つれづれ」という小コーナーが、文化面に設けられた時期がある。(首謀者は治五郎)
 「起承転結」は30代後半から50代前半にかけて、働き盛りだったワシの実感が(いま思うと)詰まっているので、脳と手のリハビリを兼ねて再録しようと思う。

治五郎親方、とうとう稽古総見へ

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< 大相撲のあるべき姿について議論する日本相撲協会の第三者機関「大相撲の継承発展を考える有識者会議」(委員長=山内昌之・東大名誉教授)のメンバーが31日、大相撲秋場所(9月8日初日・両国国技館)に向けて国技館で行われた横綱審議委員会の稽古総見を見学。プロ野球ソフトバンク王貞治会長らが、鶴竜白鵬の両横綱など幕内力士らの稽古を食い入るように見つめた。>(読売新聞夕刊=写真も)

 早起きして両国国技館に出かけたのは事実だが、写真の左方、世界の王さんと女優・紺野美沙子さんの間に座っているのが治五郎ではない。それどころか、写真を隅から隅まで探しても写ってはいない。(当たり前だ。ワシは「有識者」などではない)

有識者】それぞれの専門についての知識が広い上に経験も深く、大局的な判断が出来る点で社会の指導的地位に在る人。識者。

稽古総見というのは、競馬におけるパドックみたいなものだ。

パドック〔paddock〕㊀〔競馬場で〕競走の始まる前に、馬が集まる場所。ここで客が馬の下見をする。

大相撲は公営ギャンブルではないから、パドックの客は割と冷静だ。が、入場無料とはいえ朝から詰めかけるくらいだから、桟敷席で聞こえる声は「通」ぞろい。

「安定しているのは鶴竜白鵬の両横綱ぐらいで、3大関はどうもね」「10勝しなきゃ大関に戻れない貴景勝は、かなり厳しいな」「御嶽海にも勢いは感じられない」

力士の側からすると、稽古総見は「日々の精進ぶりを横審にアピールする」という思惑もあるだろう。見たままには受け取れないが、下馬評というものは侮れない。

アナタもワタシも「玉ねぎ」だ

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  < 韓国の文在寅大統領の側近の曺国(チョ・グク)氏(54)に、娘の不正入学疑惑が浮上し、韓国の検察はきのう27日(2019年8月)、大学など関係先を一斉捜索した。曺氏は「検察捜査ですべての疑惑が明らかになることを望む」と話している。

   曺氏は2017年の文政権発足直後から、民情首席秘書官として政権の中枢で活躍し、次期大統領候補の1人とも目されている。しかし、今月9日に次期法相候補に指名された直後から、息子の兵役逃れや妻の資産隠し疑惑など家族をめぐるスキャンダルが次々と明るみに出ていた。

   むいてもむいても出てくるスキャンダルを揶揄して、曺氏は「たまねぎ男」というあだ名までつけられている。韓国メディアには、「GSOMIA破棄は曺氏のスキャンダルから国民の関心をそらすためだったのでは」という指摘もある。>(J CASTより)

 漫画「ちびまる子ちゃん」に、こんなキャラクターが出てこなかったっけ?

治五郎が連想したのは「ちびまる子」ではなく、ノーベル賞作家のギュンター・グラス(1927~2015)だ。2006年に78歳で書いた「玉ねぎの皮をむきながら」は、自らナチス親衛隊に加わっていた過去を明かした作品で、大きな物議をかもした。

ワシも一応読んだが、内容にも増して題名が気に入った。だって「玉ねぎの皮をむきながら」だぜ。むいてもむいても下の皮がある(そして最後までむけば、必ず「無」が現れる)。泣きたくなくても(催涙効果で)涙が止まらない玉ねぎ。

チョ・グク氏を応援する気など毛頭ないが、タイトルの意味を読者に少しは味わってほしいような気がする。

「見たい」「食いたい」と「見なきゃ」「食わなきゃ」

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毎日、テレビに映る某A国大統領の頭髪を見ていたらトウモロコシを食いたくなった、という話は先日、書いた。A国の中東部は穀倉地帯で、大統領を次期も続けるためには農家の支持が大切なので、トウモロコシの輸出拡大が現大統領にとっては重要課題らしい。が、極東の隠居老人にとって今はそんなこと、どうでもよろしい。

治五郎の郷土の名産トウモロコシ「嶽(だけ)キミ=現地での正しい発音は dage ksimi=」が〝勘当息子〟のもとにも届いたので、それを齧りながら、今日は「好み」の問題を少し敷衍して考えてみたいと思う。

ふえん【敷衍】〔「敷」は しく、「衍」は広げるの意〕趣旨が徹底するように説明を加えること。「―して述べる」

筆者は、趣旨を徹底したいのであろう。(何の趣旨だ)

思うに、スポーツ番組と食べ物には共通点がある。個人による違いが大きいが、①ぜひ見たい(食べたい)もの、②見たくない(食べたくない)もの、③どちらでもないが身近な人々やマスコミの影響で「見なきゃ(食べなきゃ)」と思わされているもの。 

ワシの場合はどうじゃろう? と静かに内省してみたわけだ。(なにしろ暇なので)

①と②の間に、大きな隔たりはない。①の筆頭は、スポーツなら大相撲、食品ならサバ寿司ということになるだろうが、見たくない(食べたくない)ものは、ほとんど皆無。

バスケットボール=写真左=やニンジン、ピーマン=同右=を積極的に見たい(食べたい)とは思わないが、別に毛嫌いしているわけでもない。本来「好き嫌い」のない性格なのだ。ところが、ここに「時勢」というものが登場するから話は面倒になる。

「爺さんは、八村塁の活躍が何か気に入らないのか」「ラグビーに美しさを感じないのは美意識に欠陥があるからだろう」「パラリンピック関係の番組を見て熱狂・感動できないのは偏見があるからに違いない」。なんだかもう〝非国民〟扱いなのだ。

日本人は、一部の野菜が苦手な子に「食べなきゃ」と強制し続けて今日の「長寿社会」を実現した、という見方もできそうだ。しかし、それが何だろう。

一日に必要な野菜の摂取量は350グラムだと言われる。食卓に、それを一度に並べてもらったら、小食のワシが「俺は馬か?」と哀しくなるような量だ。我が国の健康・長生き信仰も、そろそろ「足るを知る」時期に差し掛かっているのではないでしょうか。

「認知」に関する諸問題と線香花火

f:id:yanakaan:20190823060737p:plain ②f:id:yanakaan:20190823060825j:plain ③f:id:yanakaan:20190823060915j:plain

「この二人(写真①と②)は似てない?」

と、妹Bは長兄に質問するのであった。「いやあ、考えてみたこともないが・・・言われてみれば、確かによく似てるかもなあ」

妹Bというのは、治五郎より11歳下の医者というか医学者。田舎の老父(92)が、いよいよ「認知症」と「認知」される状態になってきたので、世人も知る2017年の「4・10事件」(昨年4月に「1周年企画」の連載あり)で実家を追放された長兄に代わって、たびたび様子を見に帰郷してくれている。

木曜日といえば昨日だったような気がするが、指折り数えると既に3日が過ぎている。それとなく両親の近況を伝えがてら、妹Bが治五郎庵を訪ねてきたので、義妹バルジンを含む4人で夕食(寿司と豚汁)を共にした次第。

認知症の認知」には説明が要る。

にんち【認知】㊀〔嫡出でない子について〕自分が、その子の▵父(母)であることを認める法律上の手続き。「―を受ける」㊁あるものの存在を疑いのない事実と認めること。「敵をーする」㊂〔cognitionの訳〕〔心理学などで〕人や動物が外界の事象に接して感覚器官の働きに経験などの力を加えて知識を得たり 何らかの判断を下したりする心理的な過程。「―心理学・―意味論・―症〔=認知能力の障害〕」

「認知㊀」はこの際、全く関係ない。高齢の父をめぐって「認知㊂」に関する障害が、専門の医療機関によって「認知㊁」されたという問題だ。(認知㊂は妹Bの専門領域の一つだから、非常に興味深い(深刻な)話が続出した。しかし、それをブログで公にするような義理も資格も兄には全然ない。聞きたきゃ陋屋を訪ねなさい)

「少年老いやすく学なりがたし」をもじって言えば、結論は「老人キレやすくボケ避けがたし」ということになろうか。(笑い事ではないんだよ)

 妹Bとの会話で当たり障りのないところを明かせば、冒頭の「①文在寅と②風間杜夫は似てないか」という話くらいになる。(確かに似ている)

「在日モンゴル人姉妹には珍しいはず」と、手土産に線香花火=写真③を携えてきてくれたが、これは考えようによってはなかなか意味と味わいの深いプレゼントだ。もしも打ち上げ花火だったら、手に負えないだろう。とワシは認知㊁した。

 

無性にトウモロコシが食いたくなった理由

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どうでもいい話なので、行数は費やしませんよ。

なぜか、トウモロコシ=写真左=が食いたい!

特に好物というわけではないし、一年や二年は全く食わなくても平気なんだが、この夏は無性に食いたい。なぜだろう。

治五郎の世代(特に田舎育ち)には、親類の畑でトウモロコシを収穫した経験がある。当時は今のように甘みのあるものではなかったが、だからこそ甘く感じられた。

畑で採ったトウモロコシ(青森県では「キミ」と言った。唐黍が語源と推測される)には、ヒゲ(というか毛というか、ワシの印象ではシッポ)が付いている。

それで思い出したのですよ!

某A合衆国のT大統領に続いて、某英国で「選良」となった某J首相=写真右=が、人間のタイプも政策も似ているが、何より髪が似ている。トウモロコシ系なのだ。

治五郎は、外見によって人の好悪を判断すべきではないと思っているので、その人物の頭髪がトウモロコシに似ていようが、ハリネズミに似ていようが、どうでもいい。

どうでもいいんだけど・・・トウモロコシ、食いてえなあ。

「常に笑顔」も結構なれど

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現代の若者や子供たちに最も広く支持されている「モットー」とは何か?

もちろん「男らしさ」や「女らしさ」ではなく、ましてや「刻苦勉励」や「義侠心」などでは決してない。なに「七生報國」? キミはいつの時代の少年だ。

今どきは「いつも笑顔」、これであろう。教室に貼ってある標語などで、一番多いのがこれではないだろうか。(写真は沖縄のアンガマ。100年も200年も同じ笑顔だ)

治五郎は、この風潮に対して異を唱える者ではない。しかし、いつも笑顔を見せ続けることが美徳であるという主張には、首を捻らざるを得ない。毎度のことで恐縮だが、また新解さんの知恵を借りるとしよう。

えがお【笑顔】(うれしそうに)笑っている顔。

うれしい【嬉しい】自分の欲求が満足されたと感じて、その状態を積極的に受け入れようとする気持だ。「あの人に会えて嬉しかった / あしたは休みだ、―な / 四月から自分も大学生かと思うと、何となくー気持になる / ーね、君のその一言を待っていたよ / ー悲鳴」

 佳境に入ってきた甲子園の野球中継を見ていると、「笑顔」を義務づけられている学校(チーム)があるようだ。0-15で負けている側が、なんとか1点を返したというのなら分かるのだが、0-16になった時も応援団の大半が、笑顔。ちょっと変だぜ。

巨人の星」の星飛雄馬みたいな「〽 血の汗流せ、涙を拭くな」の世界は、もうどこにもない。暑中の連投を避けて休養日が増えたのも、高野連が「笑顔」を最優先するようになった結果だろう。(それがダメだと言ってるわけじゃないんだよ)

ただ、あのベンチやアルプススタンドの笑顔はあまりにも不自然だ。少なくとも<自分の欲求が満足されたと感じて、その状態を積極的に受け入れようとする気持>ではないだろう。無理に飼い慣らされた動物を連想させられて、痛々しい感じさえする。

「泣きっ面」があってこそ「笑顔」は美しい。ファミリーレストランの従業員が、マニュアル通りに作ってみせる笑顔はニセモノだ。そこの御老人はどう思いますか?

外国人の日本語能力向上に関する一観察

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外国人のための「TRY! 日本語能力試験N1」という受験参考書=写真左=を今、来日中の義妹バルジンに借りて読んでいる。N1というのは上級者向けということで、サブタイトルは「文法から伸ばす日本語」。

上級者向けだけあって、なかなか手ごわい。モンゴル人用のはまだ需要が少ないので、中国語圏の学習者用のを代用しているが、バルジンは、おっとりしているようで相当に日本語が分かるのだ。姉(ワシの妻)との会話に母国語を必要としない。(だからワシのモンゴル語は上達しない)

この本の、たとえば「~にかこつけて」という項目。使い方の説明として<「AにかこつけてB」は「AをBするための口実にする」と言いたいときに使われる。他の人を批判するときに使われることが多い>とあって、実例が4つほど載っている。

①彼は、地方出張にかこつけて、どうやら恋人に会いに行っているらしい。(②③略)

④要するに、雪とか桜とか季節の何かにかこつけて、集まって騒ぎたいんだろう。

これで使い方を理解してもらったという前提で、すぐ応用問題に入る。以下の〇〇部にピッタリの言葉を「病気・子ども・取材・節電」の中から選べというのだ。

1)記者をしていたときは、〇〇にかこつけて、各地の温泉を楽しんだものですよ。

2)ゲームショーでは、〇〇にかこつけて、自分が楽しんでいる親たちの姿も結構見かけますよ。

3)〇〇にかこつけて、社長にオフィスのエアコンを全部消され、寒くてたまらない。

4)A:社長は不祥事を起こして以来、〇〇にかこつけてマスコミから逃げているらしいよ。

  B:それが本当なら無責任だよね。

もちろん正解は、1)取材 2)子ども 3)節電 4)病気。 日本の大人で間違う人は少ないだろうが、日本語を勉強中の外国人にとっては案外、難しいのではないか? 思うに、この受験参考書には「日本語学習にかこつけた社会批評」の側面もある。日本で暮らしていくための「常識」や「傾向と対策」を含んでいるのだ。(親切!)

それにしても、1)「記者をしていたときは、取材にかこつけて、各地の温泉を楽しんだものですよ」って、誰のことだ? 聞き捨てならぬではないか。温泉にはあまり執着のなかった治五郎記者(元)としては、身に覚えのない冤罪だ。写真右(青森県不老不死温泉らしい)に写っている足なんか、どなたのものか全く存じ上げない。

念のため、「かこつける」について親愛なる新解さんに相談してみた。

かこつける【託ける】おおっぴらに何かをするために、関係の無い他の事を表面の理由にする。「仕事にかこつけて家庭を顧みない / 就職活動にかこつけて授業をサボる大学生」

うんうん、それなら身に覚えは幾らでもあるんだ。志のある優秀な留学生諸君は、新解さんを隅から隅まで繰り返し読むべし。  

よく「読書の夏」と言うでしょう? 言わないか

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治五郎は10代の頃から、なぜか暑い夏に読書がはかどる傾向があって、影響を受けた海外文学や日本の古典は大体、夏に読んだような記憶がある。

半世紀を経て66歳となった現在も、その傾向は続いているらしい。人は「暇を持て余して一日中、高校野球の中継ばかり見ているんだろう」と言うかもしれない(それも、あながち的外れではない)が、それだけではないのだ。やはり夏は本が読める。

鵜飼哲夫「三つの空白 太宰治の誕生」(白水社)。帯にいわく「桜桃忌70年。空白期を経るたびに脱皮していく作家の姿を、読売新聞名物記者が、新たな視点で捉え直す」。・・・著者はワシの後輩記者で、該博な知識にはかねがね感心していた。飲みながらワシに「太宰作品の明るさ」を熱弁していた姿を懐かしく思い出す。相変わらずの「おしゃべり」な性格が災いしている面はあるが、なかなか読みごたえがあった。

◎小谷みどり「没イチ パートナーを亡くしてからの生き方」(新潮社)・・・わが友みどりちゃんは、15~16歳も年下だが「死生学」研究者の草分け。よりによって彼女が8年前の朝、目覚めたら42歳の夫が急死していた。突然、バツイチならぬ「没イチ」になった当時の惑乱を冷静に顧みた第一章が圧巻。その後「没イチ会」なるものも生まれるが、この人の著作には常に〝明るい諦観〟があって好もしい。

織田作之助短編集「夫婦善哉(めおとぜんざい)」(新潮文庫)・・・新発見の続編などを加えた「決定版」だ。織田作之助(1913~1947)=写真=は、太宰治坂口安吾石川淳らと並んで「無頼派」と呼ばれる作家だが、上記3人の小説に比べると、読み返してもあまり共感できない。ダメ男としてはワシも遜色ないのだが、全編に横溢する大阪弁せいやろか? それとも、主人公のような「女遊び」いうもんをワシが全く知らんからやろか? (そこで笑わんといてや)

「読書で損した」という経験は滅多にないのだが、年を取って難儀になるのは、読んでいる本の最初の方を忘れるという問題だ。(うーん、どこかに伏線が張ってあったんだが・・・)その伏線が思い出せない。読み終えても「忘れた10~20%分、損してるんじゃないか」という印象を免れないのだ。ミステリーなんかは、もうダメですね。