自分の感動は純度100%か? という不安

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治五郎は音楽に関しては何の素養もないし、楽器をかじってみた経験もない(そもそも楽器は舐めたり齧ったりするものではない)。しかし、聴くのは好きな方だ。

年を取ったら忘れていたクラシック音楽が思い出されて、曲名も作曲者も大半は曖昧だが、You Tube などで聴くともなく聞いている時間が多くなった。ユーチューブは、どういう仕掛けになっているのかよく知らないが「あなたが次に聴きたい曲」を勝手に推理し、選んでくれる。

治五郎は、料理でも何でも「こだわり」の少ない性格で、自分で選ぶのが面倒なこともあって「お任せコース」で良しとする傾向がある。音楽鑑賞も途中で選曲を少し軌道修正すれば、 そうそう間違った方向に進むことはないようだ。

先日は、チャイコフスキー交響曲6番「悲愴」(ムラヴィンスキー指揮)から聴き始めたが、いつの間にか5番、4番と逆順に進み、やがてバイオリン協奏曲、さらにピアノ協奏曲へと移っていった。もう3~4時間は聴き続けている。

画像を隠して調べ物をしていたのだが、気が付くとチャイコフスキーがリストの「ラ・カンパネラ」になっていて「おっ、いいな」と思った。何かタダゴトでない演奏のように感じられる。「フジコ・ヘミングか?」

画像(映像)に戻ると辻井伸行=写真=だった。ウィーン公演で、アンコールに応えた時のものらしい。首を激しく振り回しながらの演奏に「頸椎を痛めたり、脳震盪をおこしたりしなきゃいいが」と心配しながら、激しく感動している自分に気づいた。鼻水が垂れて困る。

問題は、ここなのである。

ワシは純粋に音楽だけに感動しているのかどうか。「全盲なんでしょ?」「どうして、あんな演奏が出来るの?」「天才ってすごいわ」「でも苦労も多かったんでしょう」といった、おばさん達の井戸端会議的な感想が、ワシの感動の実体なのではないか?

辻井の演奏とは知らずに聴いて「おっ」と思ったのだから、そうとばかりは言えないはずだが、自信はない。現に、何人かのピアニストの演奏を見ずに聴いて「これが辻井」と言い当てることがワシには無理だ。その辺どうなってるのか、誰か教えて。