「美しい日本の私」と「うるさい日本の私」

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「美しい日本の私」というのは、川端康成が1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した際、スウェーデン・アカデミーで行った記念講演の題名だ。高校生だった治五郎が読んでも「なるほど」と納得できる日本文化論だった(と記憶する)。

しかし中には、このタイトルを揶揄する向きもあったようだ。「美しい」は「日本」に掛かるのか「私」に掛かるのか? まさか川端が容姿に自信があったとも思えないが、深読みすれば「美しい国に生まれ育ったからこそ、私は日本人屈指の名作が書けた」という自慢に見えないこともない。

日本語の形容詞がどの名詞・代名詞を修飾しているのか、なかなか一筋縄ではいかないものだ、ということを考えさせられた。二番目の同賞受賞者となった大江健三郎の演題は「あいまいな日本の私」。これが川端を大いに意識したものだったのか、あまり意識していなかったのか。調べればすぐ分かることだが、面倒だから調べていない。

今から20年ほど前に、哲学者の中島義道(1946~)が「うるさい日本の私」という本を書いた。この人は「闘う哲学者」と呼ばれるだけあって、虚偽と欺瞞に満ちた実社会に真っ向から喧嘩を売るようなところがある。同じころに出版された「人生を〈半分〉降りる」などは、治五郎の後半生に多大な影響を及ぼした。

「うるさい日本の私」の場合、「うるさい」が「日本」と「私」の両方に掛かっていることは明らかだ。本人の意思なのか編集者の知恵なのか、絶妙なタイトルである。

まず、彼の批判(というか罵倒)の対象は現代日本の「音漬け社会」(というか「騒音地獄」)である。家電量販店を始め駅構内や電車内の放送(の頻度と音量)が、尋常ではない。狂気の沙汰と言っても過言ではないだろう。

しかも彼は、当ブログのように不満をウジウジ並べるのではなく、騒音の発生源(というか当事者)のところへ足を運んで、改善されるまで何度でも抗議する。見事(というか異常)なほどのクレーマーなのだ。つまり「私」も相当に「うるさい」存在。

形容詞がどの体言に掛かるかという、日本語の「あいまいさ」を逆手に取った「快作」というか「怪作」の名に値する一冊であった。