「字解き」のイロハ

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話題がどんどん古くなるので、若いというほどではなくても治五郎よりは若い読者にとって、少し退屈かもしれない。まあ、諦めてお読みなさい。

ワシが新聞記者になった頃は、ケータイやメールがないどころか地方では公衆電話が少ないから、大きな事件事故があって現場へ行くと社に連絡するのが大変だった。所轄の警察署や役場の電話を借りることが出来ても、その先がまた大変だ。

「いま現場に着きました」「よし、電話を切らずに原稿を送れ」「へ? まだ取材が」「いま見えてるものを電話で伝えればいいんだ」「目の前では、警務課長が電話対応に追われています」「バカモン!」

電話送稿で大切なのが「字解き」。音声だけが伝達手段なので、「いろはのイ」に始まって「おしまいのン」まで、仮名の字解き法が決められている。例えばマは「マッチ=写真。近年は見かけませんね=のマ」であり、キは「切手のキ」、テは「手紙のテ」、クは「車のク」という具合だ。

もう大半は忘れたが、駆け出し時代はそんなことを覚えるのにも苦労する。ヌを「ヌードのヌ」と字解きしたら「バカモン! 沼津のヌだ」と叱られ、ユを「湯たんぽのユ」と言ったら「バカモン! 湯島のユと言え」と怒鳴られる。

仮名だけならいいが、字解きは漢字にも必要だったから「バカモン度」は高まる。

「乃」という字の説明を、今の若いモン同士なら「乃木坂の乃」と言えば正しく通じるんだろうが、当時は「乃木大将の乃」である。(乃木大将って誰よ?)

人名などの固有名詞を間違えるのは、新聞にとって致命的だ。ワシも一度、危ない目に遭った。尚という字を先輩記者に電話で「和尚さんの尚」と言ったのを、相手は「お師匠さんの匠」と受け取ったのだ。

ゲラの段階で気づいたから大事には至らなかったが、数々の薄氷を踏んで、ワシは首になることなく定年に至ったのであった。

大相撲夏場所千秋楽、むくれた治五郎親方

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むくれる ㊀「怒っていることが はっきり分かるような、不機嫌な表情や態度を見せること」のやや口頭語的表現。 

<米国大統領杯授与の際に、トランプ大統領の介添え役としてサポートした、審判委員の西岩親方(43=元関脇若の里)は、夢見心地の様子だった。>(日刊スポーツ)

西岩君といえばワシと同郷(弘前市)出身の親方だが・・・面白くない!

前日に優勝を決めた朝乃山を意地で下した御嶽海が「(観客は)相撲を見に来たのかトランプ大統領を見に来たのか」とボヤいたそうだが、全くだ。どうして日本人は「アメリカ・ファースト」の片棒を担いで、こう卑屈になってしまうのだろう?

国民がこうだから、安倍晋三は当面「虎の威を借る狐」であり続けられるに違いない。改元&新天皇即位の過剰な祝賀ムードが、そもそも治五郎には気に入らない。

(う~む、また血圧が上がってきたぞ)

気に入らないと言えば、今場所は横綱白鵬も新大関貴景勝も不在で相変わらず〝二軍場所〟の感を拭えなかった。鶴竜豪栄道、高安はどうしたのだ(ドン!)

 (おっと、どこか毛細血管が切れそうだ。しばらく横になろう)

小沢昭一の名言をかみしめる

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人は死んだらどこへ行くか? 天に昇るとか土に還るとか、風になって空を吹きわたっているのだとか、諸説あるが・・・。

昔、俳優の小沢昭一(1929~2012)=写真左=にインタビューしていて、そんな話題になったことがある。前にも当ブログに書いたような気がするが、治五郎が覚えていないくらいだから読者は完全に忘れているだろう。彼は、こんなことを言った。

「昇天とか成仏とかいうのは、しょせん人間の頭が考えだしたものだから、どれもシックリこない。死んでから行く先は、その故人をよく知る人の『心の中』じゃないでしょうか。その知人たちが何十年か後に死に絶えたら、そこで初めて世の中から消え去るんだと思います。ま、素人の考えだから当てにゃなりませんがね。ふふふ」

これは、ワシの好きな放浪の歌人・山崎方代(1914~85)=写真右=の<私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう>の世界に限りなく近い。

「どうなる」と心配したくなる気持ちも分かるが、自分が死んでこそ相手は本当に消えられるのだという発想は悪くない。

先週の金曜日は敬愛する先輩記者「笠やん」の七回忌と称する宴会があって、ワシは有楽町から銀座まで歩いて往復するのも難儀だったが、まあ行って良かった。

彼が「人の心の中」から消え去るまでは、あと20年も30年も要しそうだ。(ワシゃそんなに要したくないんだぜ、笠やん)

 

「青い山脈」のヒロイン逝去

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「アッ、その女優なら知ってる。原節子でしょ? うちの死んだじいちゃんが崇め奉っていた」。ブー、原節子=写真右=は若い女教師役で、映画「青い山脈」のヒロインは女生徒・新子を演じた杉葉子=写真左=である。

<映画「青い山脈」出演で知られる女優の杉葉子(すぎ・ようこ)さんが15日、結腸がんのため東京都内で亡くなった。90歳だった。葬儀は近親者で済ませた。

1947年、東宝に2期ニューフェイスとして入社。49年「青い山脈」でヒロインに抜てきされデビュー、青春スターとなった。(以下略、読売新聞23日付夕刊)>

1992年11月のこと。夕刊で新年から「あの人は」という企画を始めることになった。週刊誌がよくやる「消えた芸能人」に似ているが、新聞は社会性とか時代性とか登場人物の意外性とか「個人の内面」とか、いろいろ難しいことを考えたがる。

取材チームの一員になったが、企画は最初から難航した。第1回の本命たる原節子は、鎌倉で隠遁生活に入って久しい。担当記者は何度も文通して、電話で直接交渉するところまでは行ったのだが、相手がどうしても応じない。

キャップは「青い山脈」にこだわっているので「原節子がダメなら杉葉子か。おい治五郎(ではなく本名)、すぐ取材に行け。時間はないぞ」

調べたら、杉葉子はロサンゼルスにいた。ホテル・ニューオータニの「アソシエート・ディレクター」をしているという。行きたくもないロスに行った。空港でもタクシーでも英語が十分に通じず、大いに難儀した。

「あの時は、お互いに大変でしたね」と、一時帰国中の杉葉子の訪問を受けたのは数年後。年は親子ほど違うが〝戦友〟みたいに懐かしかった。

そうか、90で亡くなったか。感無量の治五郎であった。

人生七十近来ザラなり

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こき【古希・古稀】〔杜甫の詩の「人生七十古来稀なり」に基づく語〕七十歳(の長寿の祝い)。

 この言葉は、どこに消えたのだろう。現代日本において、70歳というのは長寿でも何でもなく、それを祝うような対象ではなくなった。

先日の同期会で痛感したことは、出席者の全員が四捨五入すれば「七十」なのに、誰にも長寿の実感がないことと、周囲への感謝の念も薄れてきてしまっていることだ。ほっといても90や100まで生きるのが当たり前の時代になったのだ。

70という年齢が「稀」ではなく「ざら」というより「序の口」になる。これは人間にとって「幸せ」なことだろうか?

ざら 🈔〔もと、「ざら」は「ばら銭」の意で どこにでもたくさんある意から〕同類がいくらでもあって珍しくない様子だ。〔口頭語的表現〕「世間にーにある話」

じょのくち【序の口】①始まったばかりのところ。発端。「…などはーで〔=始まったばかりで(これから先の本番が大変だ)〕

同期会に出かけて有楽町界隈を(無駄に)歩き回った治五郎は、週明けから右脚(特に膝)の調子が良くないので、バンテリン=写真=を塗るようになった(この第2類医薬品は結構、昔から効果があるような気がする)。

始まったばかりで、これから先の本番が大変だ。(新解さん、ご親切にどうも)

会社の同期会というものが面白い理由

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まあ、大体こんな景色である。土曜日の午後3時、有楽町の老舗ビヤホール「ニュートーキョー」2階。

「5500円飲み放題コース」の客(12人)は、ハゲや白髪はもちろん、老人性のシミが浮き出ている(そういう現象と無縁で、50前後に見えないこともないのが2~3人)。

飲み放題と言ったって、大半は生ビールかワインが2~3杯あれば十分だし、次々と出てくる料理も食べきれる量ではない。しかしモトは取らなければならないし、いわゆる「食品ロス」は現代の罪悪だ。独自路線の治五郎は、血糖値を考慮せずに一人で日本酒(2合)を2本いただいた。(家内と医者には内緒だぜ)

なにしろ〝花の(昭和)51年組〟であるからして、顔ぶれは多彩だ。関連会社の社長になったのもいれば、大学教授になったのもいる(さすがに引退組も増えたが、まだ現役もいる)。60歳の誕生日に退職した治五郎などは「隠居の先駆け」なのだ。

「来年の税金は大変だぞ」と労務の幹部経験者が元社長に言う。家族に聾者がいるというT田の手話実演には、久しぶりに「感動」を覚えた。糖尿病にも「不運型」と不摂生を貫いたワシみたいな「自業自得型」があって、前者に属する愛妻のボケが始まったというK藤の介護談には、己を省みて深く恥じた治五郎であった。

5時半で一応の解散となったが少~し物足りないので、5~6人で年甲斐もなく二次会へ。予想していたことではあるけれど、社会的に偉くなったかどうかとは全く関係なしに「ああ、こいつはやっぱりこういう老境に至ったか」と得心できる。

20代前半で出会った頃の印象は、40数年を経てもあまり変わらないちゅうことだわなあ。「この会、毎年やろう!」という声も出るわけだが、治五郎は同意しません。

人間は何より「あ~、もう気が済んだ」という境地を大事にせにゃあかん。

行く人、来る人

 

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妻アルタンが、テレビのスポーツニュースを見て噴き出している。

「何だ」

「こんな子供が相撲を取っていいの?」

「子供じゃないよ。そいつは炎鵬といって・・・」

<現役関取ただ一人の体重90キロ台力士として奮闘する、新入幕で西前頭14枚目の炎鵬(24=宮城野)が、この日も178キロと腰の重い同12枚目の矢後(24=尾車)を手玉に取り、上手ひねりで転がし5勝目(1敗)。幕内前半の土俵をわかせている。>(日刊スポーツのデジタル版より)

相手との体格が違いすぎるので、土俵に上がると子供に見えても仕方がないのだが、炎鵬の活躍は今場所の救いだ。初日から休場の横綱白鵬に続いて新大関貴景勝も五日目から休場となれば、もう「誰が優勝したって興味ねえや」と、好角家の多くが思ってしまいそうな今年の夏場所

しかし力士たちの新陳代謝は着実に進んでいて、昨日まで現役だと思っていたら今日は花道奥の椅子に座って、新米親方として警備の仕事に就いていたりする。体の重量化などによる大怪我も増え、往年の舞の海を彷彿とさせる軽業師・炎鵬が出てきた陰では宇良が消えてしまった(完全に消えてはいないが、復活には長い月日を要する)。

歳歳年年 人 同じからず。あゝ無常。

妹夫婦の外遊を見送って疲れる

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 妹A(64)夫婦が1年ほどオーストリアとドイツで暮らすことになり、昨夜、治五郎夫婦と妹B(55)で羽田空港まで見送りに行った。成田だったら億劫だが、今は羽田から01時20分発のウィーン直行便が出ている。

妹Aの亭主は某T海大学で西洋史を講じているので、ネタの宝庫であるウィーンとミュンヘンの大学へ「客員研究員」として赴くのである。

ウィーンといえばワシも仕事で 行ったことがあり、シェーンブルン宮殿=写真左=などの観光名所にも一応は足を運んだのだが、どうもワシはハプスブルグ家と相性が良くないらしく、広大・豪壮な宮殿や庭園は歩き疲れただけで別に感銘を受けなかった。

妹夫婦がネットで発見・契約した短期滞在用の物件は、この宮殿の目と鼻の先にあるそうだ。東京で言えば、赤坂離宮に隣接して格安ウイークリーマンションがあるという感じか。ウィーンという街の構造はよく分からん。

これからウィーンへ旅立つ夫婦を見送るのに、ウィーナーシュニッツェル(仔牛肉を叩きに叩いて薄くした一種のカツレツ。美味)=写真右=とウィンナーソーセージを食べたり、ウィンナーコーヒーを飲んだりしちゃ嫌味だろう。(そもそもシュニッツェルなんか空港レストランのメニューにない)

女3人が何を注文したかは見ていなかったが、ワシと義弟は「おでん」とビールで腹いっぱいになった。あろうことか、見送る側がご馳走される結果にまでなった。

羽田まで行って戻る。「それが何だ」と人は言うだろうが、それで疲れる人もいるということを、世間は忖度すべきだ。

JRの尾久駅で下りて、歩いても10分前後らしい距離なのだが、疲れたし腹具合が怪しいので、駅前で待機していたタクシーに乗った。今どきのタクシーは、料金が500円前後でも嫌な顔をしない! という一つの発見をした。

 

「おぎはやぎ」と「亡き大女」の教訓

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11日【番組】フジテレビ系列午後7時「クイズ99人の壁SP」で、「おぎはやぎ」とあるのは「おぎやはぎ」の誤りでした。東京ニュース通信社の配信にミスがあり、確認も不十分でした。(読売新聞12日付「訂正 おわび」欄)

おぎやはぎ」(左)というのは小木と矢作の芸人コンビだが、「おぎはやぎ」と書き間違えても気づく人は少ないのではないだろうか。番組欄の誤りに気づいて、わざわざ通報してくる読者も存在することが、新聞という媒体にとっては怖い(ありがたい)ところだと思う。

おうじょ【王女】㊀王の女児。

なぜ、ここで王女(右)を引き合いに出すかというと先日、ある本を読んでいたらクラシックの名曲として「亡き大女のためのパヴァーヌ」という曲名に出合って首を捻ったからだ。

パヴァーヌとは「16世紀初頭のフランス宮廷舞踊の一つ」だそうだが、あの曲は「亡き王女のためのパヴァーヌ」ではなかったか? 王女と大女とでは、だいぶ意味が違う。

おおおんな【大女】並はずれて体の大きい女

問題の王女は並はずれて体が大きかったのだろうか? そうではあるまい。治五郎が推理するに、著者(編集スタッフ)は「おうじょ」を「おおじょ」と入力・変換してしまったのだろう。それに誰も気づかぬまま、本が印刷・発行されてしまった。

「確認が不十分」だと、こんなミスは常に起こりうる。人間に間違いは付き物だ。「おぎはやぎ」や「亡き大女」なら笑って済ませられるかもしれないが、右折車両が対向車線の直進車を十分に確認しないと、衝突した車のどちらかが保育園児の列に突っ込んだりして、取り返しのつかない重大な結果を招く。恐ろしいことである。

恐ろしいことだが、どんな人間も一瞬の過ちは避けられないという事実を眼前につきつけられる時、罪のない他人様(特に幼児などの弱者)を傷つけないためにはどうすればいいのか?

「自動車を運転するなど、もってのほか! なるべく外出を控え、家の中でジッとしていなさい」という結論になりはしないか? これまた実に「恐ろしい」教訓である。

 

初会食が送別会

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数日前、同じマンション(賃貸)の4階に住むN木さん(40代、女性)と粗大ゴミ置き場で会ったら、思いがけずガスファンヒーター(新品)を譲ってもらう話になった。急に引っ越すことになり、転居先では不要になるらしい。ご厚意は甘んじて受けるのが人の道というものだ。

お礼がてら昨夜、夫婦で手作りの豚汁と寿司(宅配)を用意して拙宅にお招きした。N木さんは入居して6年余になるそうだが、治五郎は玄関前で何度か立ち話をしたことがある程度で、どういう人なのかは(互いに)存じ上げない。初めての食事が送別会を兼ねるということになった。

同じ間取りながら、我が家は家具が少ない分だけ広く感じられるらしい。豚汁と寿司の味はどうということもないけれど、いただいた3種類の生ケーキが、とてもおいしかった。(ワシは辛党で甘いものは苦手だということになっていて、それは間違いではないのだが、1~2年に1度ぐらいだと非常にうまく感じられる)

アンリ・シャルパンティエという名店(書いておかないと覚えられない)のもので、3種類のうちどれを誰が食べるかをジャンケンで決めたところ、治五郎は「チェリーとライムのレアチーズ」=写真=(記録しておかないと忘れる)をゲットした。

もっとも「これがおいしい」「こっちもうまいよ」と3人で少しずつ分け合う結果になったので、ジャンケンをした意味はあまりなかった。

N木さん、ごちそうさまでした。お元気で。