「万歳」の謎

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治五郎は「万歳」というものが苦手である=イラストは「グリコ」のロゴマーク=。皆と一緒に(しかも一斉に)同じ言葉を発したり、同じ動作をしたりすることに生理的な嫌悪感があるからだと思う。

会社の送別会などで否応なく一緒にやらされた経験はあるが、そのたびに何か「おてんとさまに顔向けできない」的な後ろめたい気持ちになったものだ。この感情の因って来たるところのものは何か? 万歳の周辺を考察してみよう。

感動詞としての「万歳」について、新明解国語辞典が記すところは次の通りだ。

[ 両手を勢いよく上げる動作を伴って ] 祝福の意を表わす時、また勝負に勝った時(おおぜいで)唱える言葉。

「勢いよく」と「おおぜいで」に、相変わらず新解さんの親切さがにじんでいる。両手を緩慢に上げたり、2~3人で唱えたりしては「万歳」の要件を満たさないのだ。

 

大相撲九州場所の千秋楽で横綱白鵬が、優勝インタビューの最後に観客を煽って万歳三唱をしたことが案の定、物議をかもしている。

彼の万歳は新解さんの要件を満たしているのだが、いかんせん、日本国においてはTPO( time・place・occasion )を弁えない行動だった。満員の観客も、勢いに乗せられて万歳したものの(なんか変だな)と感じた様子が顔色に出ていたように思う。

ワシのモンゴル人妻(モンゴルの人妻ではなく、モンゴル国籍の妻)によると、モンゴルにも万歳に相当するものはある。が、それは「ウラー!」といって社会主義時代、目上の同盟国・旧ソ連から直輸入されたものらしく、普通は両手を勢いよく上げる動作を伴うこともないようだ。北朝鮮の「マンセー!」の方が、日本の万歳に近い。

日本民族のヘンなところは、(三三七拍子などもそうだが)「では、せ~の」と言われると前後の見境もなく唱和してしまうこと。反射的付和雷同体質とでも言おうか。

そういえば、国会解散時の「万歳」も腑に落ちない。「これで、タダの人になっちゃった。もう議席には二度と戻れないかも」という瞬間に、なぜ万歳を唱える必要があるのか? ウィッキー先生(本名・ウィキペディア)などは諸説を紹介しているが、それでも謎は氷解しない。次代を担う若い優秀な「万歳研究者」の出現を望むや、切。