「みやげ」の普遍性に関する考察②
「やっぱり国に帰ります」と、モンゴル人妻(モンゴルの人妻ではなく、モンゴル人である妻)が言う。
「とうとう決心したのか。入籍から数えても5年数か月、短いようで長かったな。ずいぶん世話になった」というような話ではないのである。
「来月12日に戻ってくるからね。酒とタバコの量を抑えること。それと火の用心!」
7月から来日中の妹バルジンが、あさって31日に帰国するのに合わせて、姉のアルタンも一緒に数年ぶりの里帰りをすることになった。ジゴローは羽根を伸ばせる反面、非常時には自力で110番や119番をするしかないという覚悟や心的負担も生じる。
【羽根を伸ばす】束縛から解放されて、のびのびと行動する。
今週に入って姉妹が何に専念しているかと言えば、それは「みやげ」を買い集めることだ。なにしろ「アルタンとバルジンが一緒に帰ってくる」という情報が、親類・友人・知人の間では既に広く知れ渡っている。100人近くになるだろう。
彼らは「久しぶりに会いたい」だけであって、土産に期待しているわけではない(中には「せっかく帰るなら」と、自腹を切って商品名を指定する先輩もいる)のだが、帰る側からすると誰に対しても、手ぶらで帰るのはナニだ。
こうして、帰郷するモンゴル人の〝みやげ狂騒曲〟が生じる。一日や二日の買い物では済まない。観察していると、彼女らの頭には「誰には何を」というキッチリした設計図が描かれていて、予想外の来客には何を贈るかまで考える。見事なものだ。
土産の選択基準は、どうだろうか。ワシの印象では、①安い ②しかし安っぽくない ③相手に「有難迷惑」と感じさせない。この姉妹は「みやげ」の神髄を心得ているのだ。
モンゴル国は良くも悪くも、日本の後をピッタリついてきている感じがある。上の写真は、昭和39年(1964)に日暮里駅で撮影されたもの(サンデー毎日)。出稼ぎではなく、担ぎ屋とか運び屋とか呼ばれたオバサンたちの姿を捉えたものだ。経済が混乱していた1990年代初頭、ウランバートル駅でもよく似た光景に出合ったのを思い出す。
「俺も一回、モンゴルへ行ってみようかなあ」と思うそこの御老人。行きなはれ!