政局の予測と天気予報は外れることが多い

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テレビで人気の気象予報士、森朗さん=写真=である。こんどの衆院選に「希望の党」から出馬するというので話題騒然。(真っ赤なウソです)

最近、民間気象予報会社ウェザーマップの社長になったばかりらしいが、前々からTBS「ひるおび!」のレギュラーとして親しまれている。司会者(今はMCと言うのか)の恵俊彰との〝掛け合い漫才〟ではボケを担当している。

予報はしばしば外れるのだが、悪びれるということがない。「天気予報は外れるところに醍醐味がある」という一種独特の哲学を体得しているようにも見える。

2017年9月28日は、わけの分からない衆院解散・総選挙突入で歴史に残る一日となったが、珍しく取材の仕事(選挙関係ではなく街歩きルポ)が入っていた治五郎は、天気に振り回された。

午前10時にフリーカメラマンと落ち合うことになっているが、朝早く起きたら大雨。神奈川や千葉では注意報が出ていて、新聞もテレビも予報は「ほぼ一日中、雨」だ。

カメラマンに電話して「明日に延期」ということにした。ところが10時ごろになると雨は上がった。夕方まで持ちそうで、それなら出かけるんだった。締め切りが近いから取材の一日延期は痛い。ホゾをかんだ。

 

ご近所の生活音にも歴史と変遷がある

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天理教の「おつとめ」・・・毎朝8時と毎夕7時、太鼓のリズミカルな音が聞こえてくる。「だんだんよく鳴る」のは「法華の太鼓」だが、天理の太鼓も負けてはいない。

宗教団体に対する世間の声は、毀誉褒貶さまざま。治五郎はその昔、初めて奈良県天理市へ行った時に、駅前で「陽気暮らしの天理教」と染め抜かれた黒い法被姿の信者らがセッセと清掃奉仕しているのを目撃して以来、悪い印象は持っていない。

惜しむらくは天理の太鼓、5~6分で終わるので「クライマックス」には達していないようだ。もう少し聞いていたい気もするんだが・・・あまり褒めると、近所だけに「入信の勧め」に来られかねないから、やめとこう。

❷その並びにある3階建ての一戸建てから聞こえてくるピアノ=写真=の音・・・うるさい、と感じたことは一度もない。〝深窓の令嬢〟が弾いていても、おかしくはない。

小学生や中学生だとすると相当うまいが、もしもプロのピアニストだとすれば、ちょっとアレかなと思う。(技術的なことをとやかく言う資格なんかワシにはないけどサ)

地蔵寺の鐘の音・・・約5カ月前、ワシが荒川区民になった頃は朝夕、ゴオ~~ンという寺の鐘が聞こえていた。余韻嫋嫋。歩1分半の所にある真言宗の寺である。

笠智衆みたいな風貌の高僧が突いているのか、それとも佐藤蛾次郎みたいに何か弱点のある寺男の仕事なのか」。近所だから、目で確かめに行ったわけです。

半分、予想はしていましたがガッカリしました。時間になると、鐘を突く棒が機械によって引っ張られ、それが放たれることによって音を発するのです。(録音したものを拡声器で流しているのではないことに、むしろ安堵させられた)

その音がだよ、いつの間にか全く聞こえなくなった。とうとうワシは耳にも大きな障害が生じ始めたか、と思ったら、そうではないらしい。鐘そのものが鳴らないのだ。

機械の故障なのか、あるいは近隣住民のクレームがあったからなのか。幼い子供の声がうるさいからと、保育所の新設にも反対運動が起きるご時世だ。それもありうる。 

地蔵寺の鐘は、どうして鳴らなくなったのか? ワシも元新聞記者であるからには死ぬまでに一度(大げさか)取材して真相を解明しないわけにいくまい。

 

「相撲ロス」をどう乗り切るか

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あれ? 相撲ロスの話なら先々週あたりに書いたぞ。と思って調べたら、もう2か月も前のことだった。ことほど左様に、ワシの体を通り抜ける時間は加速している。急がないと。(何をどう急ぐんだ)

それにしても2週間と2か月では、やはり違う。15日間の大相撲は初日から5~6日で千秋楽を迎える(主観の問題です)が、九州場所(11月12 日初日)までの2か月は長い。一日千秋の思いで待たなければならない。

話は変わるが、「7月4日に生まれて」というアメリカ映画がある(オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演)。ベトナム戦争を描いた名作で、7月4日というのはアメリカ合衆国独立記念日である。

それが日本の大相撲と何の関係があるかというと、何もない。 

ただ、阿武咲(おうのしょう )という力士=写真=の誕生日が7月4日だというだけの話。彼はこの秋場所、新入幕以来3場所連続の10勝という快挙を遂げて注目を集めた。もう来場所は小結だろうと見られている。

青森県中泊町出身、21歳。本名は打越奎也(うてつ・ふみや)。喜ばしいことにネット社会でも相撲ファンが増えているから、この青年に関する書き込みが多い。

なぜ「おうのしょう」なんて読みにくい四股名にしたのか? という素人さんらしい疑問もあれば、「武井咲(たけい・えみ)と3分の2まで同じ漢字だが、彼女とは何の関連性もないのか。ない? 本当だな? 責任持てよ!」というマニアックな人もいる。(なんで治五郎が追及されなきゃならんのだ)

まあ、そんなこんなで2か月間の相撲ロスをなんとか乗り切れるかなあと思っている治五郎であります。

 

 

 

 

 

 

職業に貴賤はない? ふむふむ

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ワタクシは、職業に貴賤は「有る」と思うておりまする。

何が「貴」かといえば、自分の手で(足でもいいけど)モノを作ったり直したりする仕事=写真=。何が「賤」かといえば、左にあるものを右に移せば金になるということに気づいて、その道まっしぐらの人々。

新聞でもテレビでも、マスコミ界で働く人は基本的にサラリーマンだから「同期入社組より何倍も稼がなきゃ」と思う人はあまりいない(と信じたい)。

しかし事の本質を追求するなら、マスコミは「賤」の方に分類されるのではないだろうか。豪華客船が完成して華々しい進水式が行われればドドッと群がり、それが航海中の事故で沈みそうになると何十機ものヘリコプターが上空に殺到する。そして完全に沈み切れば、当然のように去っていく。

(なんだかカモメみたいな商売だなァ)と現役時代、何度も感じたものだ。そんな夜は、中島みゆきが歌う「かもめはかもめ」でも聴いて寝るしかないわけである(歌い手は研ナオコでも可)。

ところが、酒が足りなくて寝付けないこともある。そんな時に何を聴くか。えっ、北島三郎の「まつり」? アナタ、チョット変デスネ。

ワシは中島みゆきの「狼になりたい」を聴くと熟睡できる体質らしい。聞いたことのない人は、騙されたと思って一度は聴いてみなさい。(聴いて「本当に騙された!」という人は、どっかの法律事務所に相談して下さい。いま、いろんな事務所が「過払い金」対策などで大宣伝を繰り広げていますから)

 

 

 

 

治五郎親方の大相撲秋場所〝総評〟

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横綱大関の休場という99年ぶりの異常事態で「どうなることか」と、ワシゃ八角クン(現・日本相撲協会理事長)と共に心配しとったんじゃよ。

しかし終わってみれば、「一人横綱」の重圧に耐えた日馬富士が逆転優勝を遂げた。序盤で3連敗した時は「いよいよ負け越して引退か」と思ったが、さすがだ。「安馬」の時代から彼の「面魂」は気に入っていたので、ご同慶の至りである。

大相撲の「星取」というのは実によくしたもので、負け越しが多くて勝ち越しが少ない(あるいは、その逆)などという事態は決して起きない。数学というより算数の能力がゼロなので、どういう仕組みになっているかをうまく説明できないのは残念だ。

ところが今場所は、勝ち越した力士の方が多いという印象がある。きっと休場力士の白星が転がり込んだからだろう(んなわけないか)。

阿武咲(おうのしょう)、貴景勝(たかけいしょう)ら20歳そこそこの若武者が活躍した結果、そんな印象を受けるのかもしれない。この二人が横綱になったら「咲勝(しょうしょう)時代」を築くのだろうか。(少々、気が早いね)

ちゃんとした総評は八角クンに任せよう。

今場所では、相撲協会のHPで序の口(日によっては前相撲)からの全取組をナマで、しかもタダで見られた=写真=。これがねえ、実に面白いんだ。大半は16歳とか18歳のモヤシみたいな体だ(あの横綱白鵬も、かつてはそうだった)。

相撲界は力士以外、行司も呼出も年功序列社会だから皆、若くて不慣れ。珍場面が頻出する。勝った少年がフラフラと起き上がったら、相手を間違えて行司に礼をした。行司だって困惑するわけで「アンタ、そっちに立たなきゃ」と軍配で指示する。

普通は朝の8時半から中継が始まるから見る方も楽ではないが、本場所の開催中はまた一つ、楽しみが増えてしまった。

 

 

箸が転がっても泣ける年頃

f:id:yanakaan:20170920075945j:plain ©水木しげる

【腺】生物体の内にあって、分泌・排泄を受け持つ器官。(新明解国語辞典

人間は年を取ると、脳や足腰の衰えもさることながら、おしなべて「腺」関係が緩くなってくる。いろんなものが漏れやすくなる、と言い換えてもいい。

排泄関係に関しては治五郎の場合、大・小を問わず我慢できる時間が短くなった。トイレ設備のない長距離バスに乗ったりして、渋滞に巻き込まれでもしようものなら想像するだに身の毛のよだつ事態になるから、そういうものには決して乗らない。

幸い、クシャミをしたら「あ、出ちゃった」という経験はまだないので、おむつを装着してからでないと外出できないという状況には至っていない。(しかし、出たか出てないかを自分じゃ認知できない人の割合は、増加の一途をたどっているようだ)

ワシの現下の問題は、涙腺が劇的に緩くなってきたことだ。

わが涙腺の歴史に触れるなら、予兆は思春期から見られた。国語の授業で宮沢賢治「永訣の朝」を朗読させられていたら突然、変な声を発して後が続かなくなり、クラスメートの脅えたような視線を集めたのが最初だったろうか。

小説を読んだり映画を見たり、歌を聴いたりしていて突如、滂沱の涙に襲われて慌てるような事態は何度もあった。「感受性が豊かなのよ」と気休めを言う人もいたが、なあに単なる「泣き虫」であり、真因は涙腺という分泌器官の脆弱さにある。

近年は、何でもないことで泣くのが〝常態〟と化してきた。映画・ドラマで言うと、ストーリーや場面が「悲しい」とか「感動的」とかいうこととは関係ない。

例えば、もう全作を何度となく見た喜劇映画「男はつらいよ」。普通の人は、時々「ホロっと来る」ことはあっても、大泣きするようなことはないだろう。

ところがワシときたら、脚本・演出や俳優の演技を「うまい!」と感じた途端、もうダメです。涙が止まらなくなる。さながら平成の「子泣き爺」=上図=である。

病院に行くとしたら眼科だろうか、内科だろうか、それとも精神科だろうか。

「頭が真っ白になる」とは、こういう状態のことか?

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「頭の中が真っ白になる」なら、まあ分かるんだよ。非常な驚きや喜び、恐怖、感動などに見舞われて一瞬、思考停止状態に陥ることだろう。

しかし言葉というものには貧乏人同様、常に「少しでも切り詰めたい」という作用が働くので、「頭の中が」は「頭が」に節約されてしまう。

「とうとう横綱に勝ちましたね。初金星の感想は?」「いやあ、もう今は頭が真っ白になっちゃって・・・」って、キミは作家の故・司馬遼太郎=写真=か?

 

毎年、今の季節に発表されるのが文化庁の「国語に関する世論調査」結果。今年は、治五郎が10年ほど前から気になっていた言葉「心が折れる」が、初めて読売新聞1面の見出しになって登場した。

心が折れる」 20代 8割使用

「障害にぶつかり、くじける」という意味で使う人が全体の43・3%。70歳以上だと17・5%にとどまったと言うが、そんなにいるか? とワシは半信半疑だ。「アタシゃ敗戦の時は本当に心が折れました」なんて言う年寄りは、寡聞にして一人も知らない。心というものは昔から、ねじ曲がったり歪んだりすることは珍しくないが、ポキンと折れることは滅多にないのではないか。(鉛筆の芯や線香じゃあるまいし)

「目が点になる」を使う人は46・6%だが、最多は50歳代の69・9%で、40歳以下は若い世代ほど少なくなる。この言葉はそろそろ死滅に向かっているようだ。

「ぞっとしない」「(話などの)さわり」「知恵熱」などの意味を勘違いしている人が非常に多い。

いわゆる「ら抜き」など言葉の乱れについて、国語学者らの大半は「言葉は時代によって変わるので、一概に誤りとは言えない」と寛容(というか、いい加減)だ。

しかし、誤解の多さで有名な「情に掉さす」や「情けは人のためならず」がどういう命運をたどったかと言えば、本来の意味を知る人ほど使えない言葉になってしまった。使えば逆の意味に取られる可能性の方が高いからだ。

こうして豊かな日本語は、やせ細っていく途上にあるとワタクシは 心から憂えているのであります。(ドン!)

国家が国民の言葉を統制したりするようなことだけは、絶対にあっちゃならん! と、そう思う者である。同時に、国語辞書が10年20年後には消えるような新語・流行語だらけになったら、日本の文化も死滅に向かうだろうと感じている。

これは文化庁国語課の皆さんに、ねぎらいと共に伝えたい意見であります。

「明日は我が身」とこそ覚えはべれ(係り結び)

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部屋のドアを出て37歩のところに横断歩道がある。「横断は 慌てず 焦らず 無理をせず」という、町会が設置した立て看板がある。

歩行者・自転車用の信号=写真=をよく観察すると(日中の場合)、赤が70秒続いた後に青が15秒。それが点滅を始めて5秒たつと、また赤になる。

ご近所の住民に、80前後と推定される老人がいる。治五郎は勝手に、彼を八十吉(やそきち)と名付けている。八十吉さんは、歩くのが極端に遅い。国会の「牛歩戦術」を連想させられるくらいだが野党議員と違って、わざとやっているわけではない。

想像するに、加齢によって足が弱っているのではなく(それもあろうが)、脳梗塞か何かの後遺症に違いない。判断力に問題はないようで、赤信号の時に渡ろうとしたりすることは決してない 。ただ、足の運びがあまりに遅いのだ。

横断歩道には幅広の白線が9本、引いてある。八十吉さんは1本の白線から次の白線まで移行するのに2秒かかるから、9×2=18秒でギリギリ。たまには間に合わないこともあってヒヤヒヤする。

飛び出していって腕を貸したいところだが、治五郎も急に走ったりすると〝二次災害〟を誘発しかねない身体。八十吉さんが向こう岸に着くまで、イライラ顔で待つ車の運転者を目で牽制するくらいが、ワシに果たせるせめてもの任務である。

「明日は我が身とこそ覚えはべれ」というタイトルは、誰かに何かを命じたり頼んだりしているのではない。「近い将来、ワシも必ず八十吉さんと同じ状態になる。そう思われるのでございます」と、強調形で謙遜気味に述懐しているのだ。

(皆さんだって昔、古文の授業で「こそ+已然形」などの「係り結び」を習ったでしょう。年を取ると、5時間前に食べたものは忘れても、50年前に教えられたことは忘れないものなんですね)

10秒間の切ない国際交流

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午後7時ごろ、往来ですれ違った白人青年が急に話しかけてきた。治五郎よりは背が高く、整った顔立ちで知性も感じられる。似ているというほどではないが、印象としては大体こんな感じ=写真=だろうか。

 直感だが、アメリカやカナダではなく、といってドイツやフランスでもなく(あくまで直感ですよ)ハンガリークロアチアスロベニアなどの国名が浮かんだ。

「すみません。私は日本語を勉強しています」と、流暢な日本語で言う。

「Ah・・・」(どうして、ワタクシたち日本人は欧米人から日本語で話しかけられると、自分自身の母国語が揺らいでしまうのだろう?)

「私は勉強を続けるために、ずっとアルバイトをしています。ちょっと買ってほしい品物があるのですが」と言って、小脇に抱えた箱をチラッと見せる。高級石鹸1ダース入り、といったところだろうか。ソフトな手法による新手の路上押し売りと見た。

「Oh・・・でも」とワシの方が、たどたどしい日本語になった。「デモ、私、貧乏ナノデスヨ」。相手は、虚を衝かれたような表情でワシの頭から足元まで一瞥したが、無精ひげと、ヨレヨレの半袖シャツと、税込み108円のビニールサンダルが目に入って納得したようだ。「どうも」と一礼して隅田川方向に去って行った。

その時の彼の目に、とても温かいものを感じた。ひょっとしたら、押し売りなどというのは全くの邪推だったのではないか。せめて名前や出身地だけでも聞いておくべきだった。(本当はハンガリーでもクロアチアでもスロベニアでもないと思う)

いま呼び戻せば間に合うかも、と思って「ちょっと~」と叫んでみたのだが後の祭り。青年の姿は(走って逃げたかのように)もう見えなかった。異国間の理解と誤解は、この些細な市井の出来事に象徴されているかもしれない。

てなことを、今年の初サンマ(細くて短いのに1尾なんと250円)の苦みを骨まで愛しつつ、治五郎はしみじみと感じたことであった。

 

「有る」ことより「無い」ことの証明が難しい

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 よく見慣れた漢字が、じーっと見ているうちに「なぜ、こういう形なんだっけ」と分からなくなり、やがて、書こうと思っても書けなくなることがある。

(なに、そんなことない? それはアンタがワシよりずっと若いだけだ。 なに、もう74歳だって? そりゃアンタの脳が人並外れて立派に機能しているからだ)

そんな漢字の1例が、ワシの場合は「無」だ(ほかにも無数に有る)。漢和辞典を引けば理屈は納得できるんだが、そういう問題なのではなく、いちど理解しても数日後には記憶に「無い」ところにこそ、事の本質は「有る」のである。

話は少し飛躍するが、「神」というものは有るか? 「あの世」は有るか? UFOはどうか? ワシはどれも無いと思っているが、「なぜ?」と突っ込まれると厄介だ。

「だって、有るという証拠が一つも無いじゃないか」「では、無いという証拠は?」

こうなると、科学文明とやらにドップリ浸かった現代日本人は窮地に立たされ、しどろもどろにならざるを得ない。司法の世界では、いくら心証が真っ黒でも確かな証拠が無ければ「有罪」にはできないことになっているが、被告人に罪が「有る」ことを証明するよりも「無い」ことを証明することの方が何百倍も難しい。

いつか丹羽基二という「苗字博士」に会って聞いた話を思い出す。全国の100万基とも130万基ともいわれる墓を自分の足で調べ歩いた人だ。

確か年末か年始だったので「新年、なんていう苗字はありますか?」と尋ねたら、即答が返ってきた。「新年さんという人は、います。しかし正月さんはいません」

ワシは、彼が「正月」という姓は無いと断言したことにビックリ仰天した。なんちゅう人だ!

けっこう仲良くなった丹羽先生は、2006年に80代で亡くなった。万々一、正月という姓の人を見つけたら、冥土へ行ってでも抗議したいが、ワシは「あの世」など「無い」と思っているので、そんな日が訪れることも「無い」だろう(証明はできない)。