いわゆる「悪相」を弁護する

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【悪相】㊀▵醜い(恐ろしい)顔かたち。㊁縁起の悪い様子。

ねえ新解さん、「醜い」は少し言い過ぎじゃありませんか? 治五郎だったら「一見、悪い人のように見える人相」とでもしておきたいのですが、間違いでしょうか。

写真は、左から順に ①俳優の八名信夫さん ②大相撲の松鳳山関 ③春日野親方(元関脇・栃乃和歌)。いかにも善良そうな顔で、癒されます。(おい、正気か?)

 ①の八名さんには、いつか取材したことがある。ぜひ会いたいというタイプではなかったが会ってみると、とても「いい人」だった。内田百閒つながりで岡山県出身の著名人に次々と会っていた頃の話だ。

②も③も、会えば「いい人」のようだ。ただ、どちらかといえば「悪相」に属するし、それで損をしている面があるのではないか、と想像される。

「40を過ぎたら人は顔に責任がある」と言ったアメリカの大統領がいたようだ(誰だっけ)が、①②③の面をツラツラ見るに、責任なんて無いわなあ。

 

 

日刊紙と月刊誌では勝手が違う

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「ははあ、治五郎はんは福島県の三春町へ行かはったんやろ。ちゃいまっか?」

「おぬし、出来るな? 2枚の写真を見ただけで治五郎の出張先を言い当てる関西人なんぞ、そない仰山いてへんで」(どうしても、こっちまで関西弁になってしまう。日本語には「西高東低」の傾向が根強いことの一例か)

そうです、確かに「旅行読売」の取材(日帰り)で三春へ行って参りました。すんませんでした。(なんで謝る)

「今だからこそ行く ひとり旅」(仮) という特集を組むそうで、編集部は「治五郎さん(ではなく本名)には三春へ行ってほしいんですが」と言う。なぜ三春なんだろう。どこかに「ひとり旅+三春ーα=治五郎」という公式でもあるのだろうか? 「-α」の部分が怪しいとワシは感じたが、暇だから「OK」と引き受けた。

三春といえば、有名なのは張子人形=写真左=と滝桜=写真右=だ。どちらも20年以上前に行って、見た記憶がある。(何の取材だったかは、もはや定かでない)

新聞と違って、雑誌は締め切りが早い。「ひとり旅」特集が載るのは4月号で、発売は2月末日。「桜の写真はどうするの?」「去年以前の写真を手に入れます」

 きょう撮った写真でないと明日の朝刊には載らない、という世界でワシは37年も飯を食ってきたので、なかなか馴染めない。今回は仙台在住のフリーカメラマン(三浦健太郎君といいます。ご贔屓にね)と一緒だったが、慣れているとは言え、彼も桜の写真が撮れないんじゃ物足りまい。

樹齢1000年以上という滝桜とは一応、再会も果たしたが枝に雪をかぶっている。人間どもの思惑をよそに「ふん」と言っている声が聞こえるような気がした。

老爺の「老婆心」

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田舎に限った話ではない。東京でも、滅多に客の入らない小さなパン屋さんや雑貨店を見かける。1日に3人の客が来たとして、何個の商品が売れるかというと例えばクリームパン1個、サバ缶1個、それにタワシ3個(どういう客だ)である。

これで、どうやって生きていけというのだ。(以下は、例によって治五郎の妄想)

山形県のキヌ婆さん(79)は11年前、夫に先立たれた。店を続けてきたが客が激減し(100メートル先にコンビニが出来た)、足腰が痛むうえに頭の活動もだいぶ鈍くなってきた。息子の孝一(52)は東京の大手食品メーカー勤務で、母を自宅マンションに引き取ろうと言うが、妻子は猛反対らしいしキヌさん自身にもその気はない。

孝一(親孝行な長男という願いを込めて命名したに違いない)が経費を負担して、地元の老人ホームに入所した。話し相手がいて楽しいといえば楽しいが毎日、午後2時になると全員がコミュなんとかルームに集まって、手をつなぎながら「む~す~んで ひ~ら~い~て」と歌わなければならないのが、少し鬱陶しい。

 住み慣れた小さな自宅兼店舗は、どうなっているか。まだ廃屋=写真=とまでは行かないが、あと3年もすればこうなるに決まっている。

【老婆心】不必要なまでに人の事について気をつかい、世話をやくこと。

老爺・治五郎は、見も知らぬ他人であるキヌさんに対して「不必要なまでに」気をつかっているかもしれないが、まさか「世話をやく」わけにもいかないだろう。

安倍くん。

アンタに治五郎のような〝妄想〟をしてくれとは言わない。しかし日本全国に何万人、何十万人のキヌさんと孝一君がいて何を感じているか、ちょっと〝忖度〟してみるのもいいと思わんかね? (なあにが「1億総活躍」だ、とワシは憤っているわけです)

 月食が終わって綺麗な満月に戻ったし、朝になれば出かけなきゃならんし、酒はそこそこ飲んだし、もう屁こいて寝るとしようか。

 

月天心貧しき町を通りけり(蕪村)

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うーん、さすがは与謝蕪村だ。芭蕉でも一茶でもなく彼でなければ詠めない句だ。(な~んてね。実は、いま確かめるまで蕪村の作かどうか自信がなかったくせに)

雲一つない夜空の真上に月=写真=が出ている。その光の下、黒っぽく横たわっている貧乏くさい集落を私は歩いてきたというのである。明と暗の対比が視覚的ではないか。(な~んてね。貧しき町というのは、治五郎が隠棲する荒川区西尾久のことでは決してないよ。貧しい人も確かに住んでいる事実はワシが保証するが)

菜の花や月は東に日は西に(蕪村)

この俳人は、月が好きなのである。「犬が西向きゃ尾は東」という人口に膾炙した俚諺も、この一句から派生したと言われる。(違うんじゃないかと思うけど)

 それはそうと、今夜(31日)は晴れれば皆既月食が見られるそうだ。

9時に新青森を発った上り新幹線と東京発の下り新幹線は、何時にどこですれ違うか。というような数学の問題がワシには解けたためしがないので、月食が起きる年月日や時間なんてどういう計算をすれば分かるのか、全く見当もつかない。

18世紀に生きた蕪村の頭の中では、月の運行がどのように理解されていたのかが気になる。地球が太陽の周りを回っていて、地球の周りを月が回っていることは知らなかったはずだから、月食の仕組みどころか毎日、上ったり沈んだり満ち欠けを繰り返したりする月というものが不思議でならなかったと思われるが、その疑問を表明したような句は見当たらないようだ。

疑問が深まる一方の治五郎は、明朝(2月1日)の新幹線でちょっと福島県まで出かけてくる予定。(何時に目的地に着くかは、計算しなくても Yahoo! で調べられた)

 

年寄りは聞こえないふりをする、という俗説の真偽

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それは、一概に「真」とも「偽」とも言えないのではないでしょうか。

治五郎が、ここ1~2年で自覚し始めた変化の一つに「耳が少し遠くなってきたのではないか」という問題がある。面と向かっての会話に支障はないが、いつの間にかテレビの音量を大きくしている自分に気づくことがある。

近所にある地蔵寺の鐘の音を、ややもすれば聞き逃す。あの楽聖ベート-ベン=画像=だって突然、ある日を境に全く聞こえなくなったわけではないことを思えば、ワシは近いうちに補聴器が必要になっても不思議ではない。(むしろ自然)

台所にいるモンゴル妻の声が時々、十分に聞き取れない。「この味つけは、ちょっと ✖ ✖ かもね」。この「✖ ✖」部分は「しょっぱい」なのか「酸っぱい」なのか「失敗」なのか、判然としない。部屋が広すぎるからだろうか?(まさかね)

大声で聞き返して、大声でもう一度答えてもらうほどの重要案件とも思えないので、未解決のまま放置しがちである。ま、味の話であれば放置しても構わないだろう。食べてみれば解決する話だ。

俗に「年寄りは聞こえないふりをする」という場合は、その老人にとって都合が悪くて対峙したくない話題を回避するという作戦・知恵を、無視された側が(批判的に)論評していると考えられる。が、現実はもっとデリケートなのではないか。

①聞こえているのだが作戦上、聞こえていないかのように振る舞う ②周りから思われている以上に、本人の聴力が衰えつつある ③答えたくないわけではなく、そんなに聞こえないわけでもないが「まあ、苦しゅうない」という境地

〝三種混合ワクチン〟が必要な現況である。虚実は皮膜の間にあり。

治五郎親方の大相撲初場所総評

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「そのニコラスとかいう刑事は、優秀な捜査員なのか」

「いや、警察官じゃありませんよ。ニコラス・ケイジ=写真=という、アメリカの映画俳優です」

「なんで今、日本で話題になってるんだ」

「大相撲の初場所で優勝したんです」

「そうか・・・えっ?」

この二人は、どちらも大きな勘違いをしている。顔つきが似ていることから「角界ニコラス・ケイジ」の異名を取っている前頭3枚目の栃ノ心(春日野部屋ジョージア出身)が初優勝を遂げたのである。

平幕の幕内優勝は旭天鵬以来、6年ぶり。たまには、こういうこともあっていい。旭天鵬が優勝して間もない頃、ワシは友綱部屋を訪ねて話を聞いたことがあるが、何百枚もの色紙に手形を押してサインするのに大忙しだった。

旭天鵬は、外国出身とは思えない流暢な日本語で「外を歩けば、誰彼から声を掛けられる。優勝するというのは、こういうことなのかと実感しました」と言っていた。栃ノ心も、今後1年ぐらいは外出するたびに「ニコラ~ス!」と(ニコラスではないんだが)呼び止められるに違いない。

さて今場所の内容だが、ひとことで言うと「惨憺たるもの」だった。日馬富士が引退して残った3横綱のうち、白鵬稀勢の里がはやばやと休場。鶴竜はと言えば、ばかに好調だと思われた10連勝の後は、無残な終盤を迎えた。

ニコラス(違うってば)を除けば、ワシが早くも「咲勝(しょうしょう)時代」を予言した小結の阿武咲・貴景勝が共にダメ、関脇の御嶽海は辛うじて勝ち越したが、北勝富士も負け越した。救いは、新入幕の竜電と阿炎が10勝を挙げて敢闘賞を取ったことと、もと「怪物」逸ノ城の復調ぐらいだ。

将来の横綱を期待された照ノ富士などはもう「過去の人」になりかかっているし、ロートル(失礼)の安美錦豪風も「寄る年波」には勝てず、十両はいいが幕下に落ちれば一陽来復は難しくなる。怪我のせいとは言え、ニコラス刑事(まだ言うか)のように幕下下位から出直して幕内最高優勝するなど、奇跡に近いのだ。

来月以降は政争にも似たドロドロの理事選、理事長選が待っている。まだ八角(いや、発覚)していない不祥事も幾つかくすぶっているようだし、文春その他がハイエナの如く嗅ぎ回っている。発覚いや八角理事長も生きた心地がしないだろう。

ともあれ、2018年の角界は多難な幕開きとなった。ワシにはどうにも出来んが。

 

こぼれ話:栃ノ心の締め込み(回し)は、師匠が現役時代に使っていたもの。尊敬のあまりなのか、いわゆるゲン担ぎなのか、よく分からない。文字通り「人のふんどしですもうをとる〔=他人のものをうまく借用したり そのやる事に便乗したりして 自分の利益を図る〕」を地で行く例だが、この場合は〔 〕の中ほどの悪い意味はない。

 

 

「街の灯」に学んだこと(その2)

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「街の灯」に、困った酔っ払いが登場する=写真の中央=。大富豪なのだが夫婦関係か何かの悩みがあって泥酔状態で入水自殺を試み、通りかかったチャップリン=写真の左端=に助けられる。意気投合して自宅(豪邸)に招き入れ、大歓待する。

ところが、翌朝になって酒気が抜けると何も覚えていない。「お前は誰だ? なぜ、ここにいる?」 ホントに厄介な男だ。が、こういう人間は現実に存在する。

第一次「谷中庵」時代(と治五郎は呼んでいる)の話だ。目を覚ましたら、部屋の片隅に上半身裸の男が転がっている(暑い季節だったんだろうが、不穏な状況ではある)。生きているのか死んでいるのか? 110番が先か119番が先かと一瞬、少しマジメに考えたが、数分後に記憶がよみがえった。

前夜「いま、ニシッポリに着きました!」と電話があった。「ニシッポリて、どこだ? ああ西日暮里か。じゃ、あと5~6分で迎えに行くよ」

彼は、モンゴルでは新進気鋭の地質学者・トゥムルバト。かつて治五郎にモンゴル語の初歩(の初歩)を手ほどきしてくれた男だ。こういう(日本語を話せる)モンゴル人が何週間か滞日する場合、目的が学習・研修の類なのか、出稼ぎ(アルバイト)なのか観光なのかは判別が難しい。(全部、兼ねているのかも)

高いホテル代は払えないから知人の家を転々とするのが普通で、そういう事情にワシは理解のある方なので、何日か泊まらせた。近所に住んでいたチンドン屋の中年女性と3人で飲み明かしたりした夜が、懐かしく思い出される。

つまり何の話かと言えば、「街の灯」の困った酔っ払いはワシ自身のことだったかもしれないということなのですね。

風の便りによるとトゥムルバトは数年後、酒で体を壊して40代で急死したそうだ。モンゴルも惜しい人材を失ったものだが、彼自身はあまり後悔していないような気がする。

 

 

 

 

 

「街の灯」に学んだこと(その1)

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チャップリンの『街の灯(ひ)』は、治五郎が最も好きな映画の一つである」

自分で言っといてナンだが、この文章がワシは気に入らない。腹が立つ。なぜか?

「最も~」と「~の一つ」との間に許しがたい二律背反性が認められるからである。明らかに欧米文化の好ましからざる影響を受けている、と思う。

我が国の小型国語辞書で最も信頼できる新明解国語辞典は、「最も」をどう説明しているだろうか。

【最も】程度に関して  、同類の中の一方の極にあって、それ▵以上(以下)のものが無い様子。

「大好きな映画の一つ」なら全く問題ないのだが、ワシは「七人の侍」も「東京物語」も「砂の器」も大好きで、ジャンルが違うから、どれが一番と言うことはできない。

「街の灯」=写真=は万人が知る通り、全盲の貧しい花売り娘に(同様の)貧しい主人公が恋をする切ない物語だ。相手からは「大金持ちの親切な紳士」と思い込まれ、いろんな滑稽シーンが展開するわけだが、優れた喜劇というものが見ていて泣けるのは、それが人生の「真実」を照射するからだろう。うむ、なかなかいい話になってきたが、今晩(と明晩)はそれが言いたいのではない。「最も」と「一つ」の問題だ。  

ワシの好きな(最も好きというほどではない)作家・清水義範の傑作に「永遠のジャック&ベティ」(講談社文庫)がある。英語の教科書に出てきた少年と少女が、大人になって再会したらどうなるか・・・。

「オー、あなたは世界中で最も美しい女性の一人です」

こんな言葉を口にする日本人がいるだろうか。でも、授業で先生から「訳しなさい」と言われたら、我々は全員がそう訳してきたのだ。おかしい。とてもヘンだ。

ワシがジャックだったら「おいおい、スッゲー美人になっちゃったなあ」と正しく訳したことだろうが、今となっては虚しい空想なのであった。

 

しげぼうは牡蛎じいさん

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しかし味のある風貌になってきたなあ、畠山重篤さん(74)=写真=。良く言えば自然哲学の思想家、悪く言えばイスラム原理主義の指導者みたいだ(実体は前者)。

カキ養殖の漁師で著書も多く、「森は海の恋人」という名文句が今は一部の教科書にも載っている。なんで知り合ったんだか、もう曖昧だが尊敬する人生の先輩だ。

この人と治五郎は「旧友」と言っていい間柄で、彼の地元である宮城県気仙沼市に2、3度行ったり、向こうが上京すれば谷中界隈でワシが催した「3回忌」その他の酔狂な宴会に来てくれたりした。

今月の第3土曜日に、彼の生活と意見を紹介したドキュメンタリーが放送されるという話を聞いたが、その日はサンド会の当日で、23時からの放送では最後まで見ていられる自信がない。(果たして、その通りになった)

NHKのEテレである。(な~にがEテレだ、昔どおりの教育テレビでいいのに)

本人からの「見てね」という伝言も漏れ承っていただけに放送開始早々、酒のせいで熟睡してしまったことは慚愧の念に堪えない。

ところが数日後の午前0時から再放送があって偶然、ほぼ全編を(ほぼ素面で)見られた。別に気をつけていたわけではないのだが、ワシはこの種のタイミングというか勘に恵まれるタイプのようだ。

番組のタイトルは「カキと森と長靴と」。

新聞の番組欄に載ったサブタイトルが、民放以上に欲張っている。「山に木を植えた海の男 7年前の津波と母の死 驚きの神秘の生態系!」と来たもんだ。ま、どんな内容かは的確に要約されている。なかなか見ごたえがあった。

しげぼう、上京の折は治五郎庵にも酔って(いや、寄って)下さい。

熊野古道とオオカミの関係? 知らんな

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 熊野にも昔はニホンオオカミが棲息していたのは知っているが、明治時代に絶滅したはずだが・・・あっ、思い出した。昨夜、「続きは明日」と予告した件だ。

 初めてモンゴルへ行った翌1992年の夏、夕刊「旅」の取材で熊野三山和歌山県)へ行った。当時はまだ体力があったから(今は絶対ムリ)、熊野古道=写真左=の一部・中辺路(なかへち)に挑戦する。

初日は雨の中を14キロ歩いてヘトヘトになったが、世界遺産など縁のなかった当時の熊野は人跡まれ。途中、一人の人間にも会わなかった。ようやく人里に出て一泊し翌朝、行き倒れになりそうな姿で歩き出す。やはり人間を見かけない。

すると、向こうから若い女が、両肩に重そうなカメラをぶら下げて現れた。眼光が鋭くて、どこかオオカミ=写真右=のような印象を受けた。「コンチワ~」と言ってすれ違うようなシチュエーションではない。

それが、チサトさん(当時28歳)との出会いだった。アラスカでオオカミの写真を撮ることに命を懸けていて、資金を稼ぐために奈良県の実家で裁縫をしたり、四輪駆動車で秘境を巡るアルバイトをしたりしているのだという。

オオカミならモンゴルで何度か見ているので、話が合う。その晩は、宿に招いて痛飲した。(【痛飲】いやというほど酒を飲むこと。)

その後、何年かは年賀状をやり取りしていたが、そのうち「とうとうエスキモーと結婚しちゃいました~」という便りがあった。赤ちゃんの写真もある。ちょうど21世紀を迎えて、新年企画で「海外で活躍する日本人」を取り上げることになった。会社の経費を使って「取材」という名の表敬訪問をするには絶好の機会である。

熊野とオオカミとアラスカが、これで何とか繋がりましたね。