エジプト人をめぐるホロ苦いニュース

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初戦の相手コロンビアに勝ったもんだから、日本中が「サランスクの奇跡」とか「半端ない大迫」とか言って浮かれている。それはまあ結構なことだろうが治五郎は、つい次のような小さな記事に目が留まって考えさせられる。

  <サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会で、エジプトのGKシェナウィが試合の最優秀選手に贈られる「マン・オブ・ザ・マッチ」を信仰上の理由で辞退したことについて、ビール「バドワイザー」を販売する賞のスポンサーが18日、コメントを発表した。「全ての選手の信仰心を尊重する。賞を辞退した選手にも同じく栄誉をたたえたい」とした。イスラム教では飲酒が禁じられている。(時事通信)>

 バドワイザー=写真左=としては賞の辞退により、かえって宣伝効果が高まって喜んでいるに違いない。しかしイスラム教徒であれば酒(たかがビールだよ)のメーカーを、そこまで疎んじなければならないものだろうか?

もしも酒を一滴も飲んではいけない国に生まれていたら、ワシなどは若くして亡命を図っていたのではないかと思われる。

エジプトと言えば、無免許運転がバレて角界を〝レッドカードで一発退場〟させられた大砂嵐=写真右=は、その後どうしたろう。スポーツ紙によると写真の通り、断髪式もなしでスキンヘッドになり、総合格闘技に転じて渡米するとか既にしたとかいう。

「これが飲まずにいられよか!」と、彼はヤケ酒をあおるべきところだが、飲んだことがなければそう思うこともないんだろう。宗教って、何だ?

W杯のマークとムンクの「叫び」

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 W杯の中継を見ているとロゴマークと言うのかエンブレムと言うのか、場面が変わるごとにそれがうるさいくらい出てくる。ほんの一瞬のことだから、目を凝らして全体像を把握しようとしても把握できない。

 そこで、静止画像=写真左=をじっくり観察してみた。優勝トロフィー(以前はジュール・リメ杯と言った)をかたどっていると思われるが、ボール=地球に当たる部分に歪んだ青い円を三つ配してある。

「どうも、これは何かを連想させるぞ」と治五郎は感じた。何だろう?

往年の覆面プロレスラー「ザ・デストロイヤー」が苦しんでいるところのようにも見えるが(古いな)、もっと人間の深層心理に訴えかけてくるような何か・・・。

そうか、有名なノルウェーの画家ムンク「叫び」=右=だ! (さすがにワシも、そこまではすぐに気づかなかった)

絵の人物は口を大きく開けているが、自分で叫んでいるのではなく、多くの人の「阿鼻叫喚」が聞こえるので惑乱して耳を塞いでいるらしい。

何かワールドカップの〝お祭り騒ぎ〟とは縁遠いように感じるだろうが、歓喜と狂気と絶望は紙一重。FIFAもそこを考えたのに違いない。(そうかなあ)

過去に何度も優勝した「強豪」が、はるか格下の国に負けたりした時、スタンドはこの「叫び」のような表情で溢れる。FIFAはそれを表現したのだ。(そうかなあ)

 

天災は忘れる前にやって来る

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どうも、月の満ち欠けが早くなってきてないか? とは最近もブログに書いた治五郎の実感。年のせいだろうと思っていたが、そうとばかりは言い切れないようだ。

関東大震災(1923年)が今から95年前。それを〝忘れた頃〟に阪神淡路大震災(1995年)=写真=が起きて「ああ、寺田寅彦の言った通りだ。次は2050年の見当かな」と思っていたら、2011年に東日本大震災だ。

戦禍は人災だから除くとして、大勢の人が予期せずに死んだ「大震災」は、約100年の間に3回ということになる。(計算は合ってるかな?)

18日の朝、寝ぼけて聞いた地震のニュースには「おお、ついに起きたか! 南海トラフか東海か」と思ったが、自然は人間より賢いので「次はこの辺」と思わせておいて、急に再び関西を襲うという、ブラジル仕込みの「フェイント」に熟達している。

よほど運の悪い人が今回も何人か犠牲になったが、大震災には至らなかった。

ふた昔前に比べると、首相官邸気象庁もマスコミも、対応がずいぶんスピーディーになったと思う。発生から2時間後には、大体の被害規模がほぼ正確に伝えられた。「危機管理」に力を入れてきた結果だ。(ここが日大上層部・広報との大きな違い)

しかし気象庁のスラスラした発表を聞いていると、不満も感じる。

「震度とマグニチュードの違いは、ワシだって知っとる。地震が起きて家を飛び出した人に『火を消して』と言ってどうするんじゃ? それより『次の大地震は、〇〇ではなくXXで起きます』と直前に言ってほしい。一度でも言ったことがあるか?」

ひとことで言えば「人間は自然に弄ばれている」ということに尽きるが、仕方がないのではないだろうか。地球の怒りも、どんどん加速しているのだ。

 

今こそ「野球」を語りたいが

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 「なんで、サッカーW杯の開催中に限ってプロ野球の話をするんだ?」

「治五郎は偏屈者だから、みんなと話を合わせるのがいやなんだろう」

まあ、そう決めてかからずに。ワシの少年時代は日本中、スポーツといえば野球かプロレスであった。そして野球といえば長嶋茂雄=写真左=であり「巨人の星」=右=であって、他の選手やチームはどうでもよかった。

ワシは、ご指摘通りの性格だから「強者」には抵抗があって、天性のスターである長嶋と、「巨人の星」の飛雄馬主義(ヒューマニズム)には強く惹かれつつも、周囲の熱狂ぶりとは一線を画していた節がある。

読売新聞に就職して「あ、ここはジャイアンツの親会社だったか」と気づいた。別に巨人を応援しなければならないという内規はなく、現に大阪本社ではタイガースのファンが多いらしい。

巨人には応援したいような、したくないような、複雑な感情を抱いて今日に至る。しかし他のチームには何の思い入れもないから、巨人が出ていない試合は見る気がしないし巨人が勝っても、それほど嬉しいわけではない。詰まらない観客なのである。

今年のペナント・レースは、セ・リーグが「一強(広島)他弱」、パ・リーグは「一弱(楽天)他強」の感があり、面白いんだか詰まらないんだかよく分からない。

野球にあってサッカーにない魅力の一つは「間(ま)」だと思うのだが、それがアメリカ人に分かってヨーロッパ人には分からないというのがまた、不思議である。

W杯の方は、どのチームも最初の一戦をそろそろ終えて、リーグ戦突破へ向けてだんだん面白くなる。ワシも当面、野球よりサッカーに目が向かわざるを得ないようだ。

 

 

Ta apxи yyдaг yy?

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「タ アプクス・・・」

違います。キリル文字では「ター・アルヒ・オーダゴー?」と読んで下さい。和蒙(日本語・モンゴル語)辞典を引けば「あなたは酒を飲みますか?」と載っているが、そんな堅苦しい会話は現実的でない。「いける口?」が正しい訳だ。

飲めない人は「ビシ」または「ウグイ」と否定し、飲む人は「ザー」または「テー」と肯定する。好っきゃねん、という場合は「テーテーテー!」 が通じやすい。

昨夜のサンド会、来客は確か5人(大野、田中、加藤、隆本、石田)。迎える側は、治五郎とダムディンジャブ・アルタンツェツェグ(アルタン)、ダムディンジャブ・バルジンニャム(バルジン)姉妹。バルジンは「いける口」ではないし恥ずかしがり屋なので、台所で勉強だかスマホだかに専念していた。

apxи(apиxでも可)はアルヒ=写真=。モンゴルのウオツカ(アルコール度39%)なのだが、向こうでは水や炭酸で割るのは〝邪道〟とされるし、かといってグイグイ飲むと元横綱日馬富士みたいな事件が頻発するので、瓶の蓋を開けても中身が出にくいような加工がわざわざ施してある。

しかし「テーテーテー!」が集まれば、そんな小細工は物の数ではない。

たっぷり飲んで、ぐっすり寝た。朝は爽快だ。ところで昨夜は何を話したんだっけ?

 

空き缶ものがたり

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家を出て数歩のところに大型の自動販売機が2台、デンと据えてある。空き缶=写真=専用の大きなゴミ箱もあって、自販機の設置者が定期的に回収してくれるが時々、入りきれなくて溢れそうになることがある。それだけ利用者が多いのだろう。

治五郎も、こっそりコンビニで買った発泡性スピリッツ(アルコール分は高めの9%)の空き缶(ロング)を捨てるのに愛用している。(だから溢れそうになるのだ、というほどのことではないと思う)

溢れ始める頃に、誰かが缶をゴッソリ持っていってくれている事実に気づいた。先日、目撃したのだが、それをやってくれているのは40~50代のオジサンだ。外見はホームレスか、それに近いが大きな回収袋に入れて自転車でどこかへ運び去る。

調べてみたらアルミの空き缶は、しかるべき所に持ち込めば「10個で5円」だかの相場で金になるらしい。ワシの計算が正しければ100個で50円、1000個で500円だ。

1週間ほど前、その自販機の前でワシが100円玉を落とした。最奥部に転がっていってしまったもんだから、長い棒でもないと取れない。三遊亭小遊三じゃあるまいし、日中は人目があるから実行するのに抵抗がある。(真夜中だと、もっとアブナイかも)

「オジサン、その下の奥に空き缶200個分の金があるよ」と教えたくてたまらない。

大手新聞社を退職して5年余、例えば「格差社会」という問題を〝下から目線〟で捉えられるようになったことに、ワシは感謝こそすれ不満はありません。

日朝首脳会談がウランバートルで開かれる可能性の有無

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何だ、この2棟の建物は。埼玉県あたりの市営住宅か? と人は思うだろう。

左側の広告塔(みたいな物)は無かったが1991年、治五郎が初めてモンゴルへ行った頃は、ウランバートル市内に外国人が泊まれるようなホテルが2軒しかなかった。その一つが「バヤンゴル」=写真=。バヤンは「豊かな」、ゴルは「川」。それをワシは「豊川旅館」と置き換えて語彙を徐々に増やしていった。

「一流ホテル」にしては停電・断水が多くて、8階の自室まで階段を上ったり、シャワーが冷水になって風邪をひきそうになったりしたことが何度かある。(さすがに近年は他のホテルも増え、そういう話はあまり聞かなくなった)

米朝首脳会談が終わって、日本独自の「拉致問題」を解決するにはどうしても日朝首脳会談が必要だという話になっている。事務レベルの交渉・調整がウランバートルで進行中だという。なぜモンゴルで? と疑問を感じる日本人が多いのは当然だ。

社会主義時代のモンゴルは、旧ソ連の属国みたいな存在だった。北朝鮮とは兄弟みたいなもんだ。戦後の日本は、アメリカの属国みたいな存在だ。(沖縄を見てみい)

「親分には何も言えない子分」という意識を共有している。日朝首脳がウランバートルで顔を合わせるという案は、そう突飛なものではないだろう。

問題は、海外から押し寄せるマスコミに対応しきれるかどうか。バヤンゴルの経営陣と従業員の明日を、ワシは少し心配しておるんじゃよ。

命なりけり水元公園

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水曜日の昼下がり、葛飾区東金町に住む主婦のP子さん(36)が玄関先の掃除に熱中していると、知らない男から声を掛けられた。

「ちょっと、すんません」

「えっ? はい何でしょうか(変な人でなきゃいいが)」

水元公園へ行く道を教えてくれませんか」

男は70近い感じで、半白髪の頭に野球帽をかぶっている。頑健な体つきには見えず、足元が少し危なっかしいという印象を受ける(大丈夫だろうか)」

見ると、後ろにアラフォー(40前後)らしい女が二人いて「いずれがアヤメかカキツバタ」というほどの美人ではないが、姉妹だろうという見当はつく。男は父親なのだろうか。それにしては全然、似ていない。

「この道の先に設計事務所があるので、そこを左に曲がってまっすぐ行って下さい」

「ああ、どうも。ありがとうございます」

親切なP子さんはホッとした。が、心配は残るので「お気をつけて」と付け加えた。

はい、この男が治五郎です。金町駅から歩いて10分、かなり疲れとるとですよ。

水元公園の花菖蒲=写真=は見頃で、実に素晴らしかった。「メタセコイヤの森」でビニールシートを広げて寝転び、買っておいた「柿の葉寿司」やソフトクリームを食っていたら、西行法師の名歌を思い出した。

<年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山>

「若い頃に越えた峠を、69歳にもなって再び通ってしまった。長生きというのは、してみるもんだなあ」という感慨である。

ワシの場合、西行の享年にはまだ遠いが「命なりけり」の実感はある。水元公園は何十歳になって行っても、いいと思うよ! 

 

信じてもらえないでしょうが、これが正直なところです

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先般の、日大アメフト部の監督・コーチの記者会見を思い出してほしい。

信じてもらえないでしょうが、私は(危険タックルを)指示していません」

「相手に怪我をさせろという意味ではなかったのが、正直なところです

言葉の端々(下線部)に「私の言葉はウソです」という本音が現れている。

アメフトはもう、どうでもいい。治五郎の予想(期待)通り、世間の関心はマンモス私大の経営体質に向かってきている。追及の手を緩めるなよ! と言いたい。

話は変わるが、サッカーW杯が目前に迫った。「今回は優勝か?」と期待する日本人はバカである。「ベスト8なら可能かも」という人もダメだ。世界のスポーツと言えば野球や相撲ではなくサッカー(フットボール)に決まっている。(アメフト? 論外)

「おい長友! なんだその唐突な金髪は。愛妻アモーレの差し金か?」と、野次を飛ばす程度の知識と関心はワシにもある。(野次は飛ばさないが)

1960年代前半、西ドイツ(当時)の少年たち=写真=がどんなスポーツ環境に置かれていたか。証言できる数少ない日本人が、この治五郎だ。6~7歳だったと思う。

先生が「なに、ボールを蹴ったことがない? じゃ、とりあえずトアマン(門番=ゴールキーパー)でもやってもらうか」。野球なんか知らないドイツのサッカー少年=写真=に交じって、治五郎は初めてスポーツというものを経験した。

ワールドカップやブンデスリーガの名シーンをカラー印刷した小さな厚紙のカードを遠くに飛ばし合って、勝った方が相手のカードを獲得するという、昭和日本のメンコと同じ原理の遊びもあったなあ。

世界ランキング1位のドイツと61位の日本との間には、子供の記憶一つを取っても、そのくらい歴史の差がある。

信じてもらえないでしょうが、これが正直なところです。

北村薫「太宰治の辞書」を読む

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太宰治=写真左=が愛人と玉川上水に飛び込んだのが1948年の6月13日、遺体発見が同19日。「桜桃忌」は俳句の季語にもなり毎年、多くの太宰ファンが三鷹禅林寺に詰めかける。70周年に当たる今年は、ことのほか大賑わいだろう。

治五郎は何よりも「群れる」「群がる」ことが苦手なので、そういう現象には極めて無関心、冷淡である。(一人で静かに偲べばいいだろう)

そんなワシが今、北村薫さん(1949~)の「太宰治の辞書」という本を読んでいるのは偶然に過ぎない。3年前に出た単行本が昨秋、創元推理文庫になった。

面白い小説の「どこが面白いか」を解説することほどヤボな行為はないので、やめておく。北村さんは「ミステリ作家」ということになっているが、殺人事件とは縁がない。人が日常的に経験する「謎」と「不思議」がテーマだ。

そんなワシが、こともあろうに2007年、新潮文庫北村薫「語り女(め)たち」=写真右=の巻末に「北村薫の『出会い』と『語り』」と題して解説を書いている。治五郎名義ではなく本名を使っている。(おゝ、恥ずかしい!)

旧知の版画家・大野隆司さんや、声優・朗読家の北原久仁香さんらを引き合いに出して北村文学の魅力に〝肉薄〟しようと頑張ったのだが、読み返すと破綻している。

太宰治の辞書」を読んで「どこがそう面白いのか、よく分からない」という人もいるだろう。しかし「本がないと死んでしまう」という〝依存症患者〟も、世の中には少なくない。そういう人には「毒」であり「救い」にもなる1冊だと思う。