幸せなら手を・・・たたけない。残念!

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〽 幸せなら態度で示そうよ ほらみんなで手をたたこう

この歌、嫌いとは言わないが苦手です。(実は大嫌いかも)

8月12日が日航機の墜落事故で死んだ坂本九=写真=の命日だったもんだから、つい思い出した。

「昭和中期の歌謡界を席巻した、いわゆる6・8・9トリオ(詞・永六輔、曲・中村八大、歌・坂本九)のヒット作だったかな? しかし発想が日本人離れしてるな」

幸せなら手をたたいたり足をならしたり、ほっぺや肩までたたいて喜びを表現すべきである、という考え方は、治五郎が漫才師だったら「欧米か⁈」と相方の頭をドツキたくなるところだ。案の定、原曲はアメリカ民謡らしい。

ワタクシども日本人にしみついた身体感覚は、次のようなものである。

〽 男というもの つらいもの  顔で笑って

  顔で笑って 腹で泣く  腹で泣く

映画「男はつらいよ」の主題歌だが、つらいのは女だって同じだろう。

集中豪雨で家も家族も失った人が、テレビのインタビューに答える時の表情をご覧なさい。「もう、どうにもなりませんわ」と言いながら、へらへら笑っとるでしょ?

これが、日本人のダメなところであり、同時に最もイイところだ。(とワシは思う)

IT起業で成功した大富豪と人気絶頂の美人タレントが、SNSで幸せぶりを世界に向けて発信しており、それが賛否両論を呼んでいるそうだ。どうでもいいけど、幸せというものは一人で「かみしめる」方がよろしいのではないか。(とワシは思うなあ)

 

抵抗のある祈り、抵抗のない祈り

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 以下に述べることは治五郎という、少し変わった一老人の戯言(たわごと)に過ぎないので、いちいち腹を立てられたり告発されたりしても困る。思想ではなく嗜好に近い問題。「この爺さんは異常だ」と感じたら、明日から読まなければ済む話だ。

死者を悼むとか、平和を祈るとかいう気持ちはワシにもある。ただ、そこに「宗教」が介在してくると強い抵抗を覚える。

日本人の常として、例えば結婚式は神前=写真=で葬式は仏式、クリスマスなどの際はキリスト教徒を装うという、世界でも稀な習慣に、ワシも少年時代はドップリ浸かっていた。が、大人になると年を重ねるにつれ「どうも変だ」と思い始めた。

属する宗教によって掌を合わせたり、両手の指を曲げて組んだり、遠い聖地に向かって平伏したりする。神社仏閣や教会やモスクで毎日、繰り返されている光景で、ワシにも(モスクでの礼拝を除き)経験がある。チベットやモンゴルでは普通の「五体投地」も(行きがかり上)やらざるを得ない状況になって、やったことが何度かある。

「なんでワシが」という違和感は、五体投地に限らない。神社の拝殿の前で柏手(かしわで)を打ち賽銭箱に小銭(紙幣でもいいのだろうが、もったいなくてワシには出来ない)を投げ入れ、合掌する時なども「あゝ、ワシは今、何か自分にウソをついている」という後ろめたさから逃れられない。たまらなく恥ずかしい。

周りの参拝客にそんな様子はうかがえず、老いも若きも「今年一年、家族がみんな健康で過ごせますように」などと真剣に祈っていて、それでスッキリする(らしい)。この光景に抵抗を感じてしまうワシとは一体、何だろうか。

突き詰めると、それは宗教の「所作」にある。墓地で鉦(かね)を鳴らしたり護摩(ごま)を焚いたり、あるいは胸の前で十字を切るという決まり事に、ワシはどうしても馴染めない。そういう所作が出来ない人は、どうすれば「祈る」ことが出来るか。

体を動かさないことだ。「あゝ爺ちゃん、とうとう死んじゃったか。天国や極楽というものは無いけど、まあ長らくお疲れ様でした。良かったね」。何もせず黙って(目をつむるくらいは可)、そう念じればいいのではないか。

てな心情をさらに突き詰めると、ワシが抵抗を感じない「祈り」の淵源は「アニミズム」という一種の原始宗教にたどり着く。

アニミズム】あらゆる現象・事物に霊魂の存在を認める考え方。「精霊崇拝」とも。

既成宗教よりはずっと居心地がいいが、まだまだ解決には遠い。

「この焼酎(四合瓶)の蓋には、いかなる霊魂が宿っているのか?」 ワシには分からんとですよ。

 

 

 

「先祖」と「祖先」はどう違うか

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「どう違うったって・・・同じようなもんじゃないの?」と我々凡人は思いがちだが、そういうことまでもキッチリ説明せずにいられないのが新解さんだ。他の辞書で「先祖」を引けば「祖先」、祖先を引けば「先祖」と載っているのとは訳が違う。

【先祖】㊀家系の初代。㊁一家の現存者以前の人びと。「―の位牌を汚す/ー代代」

【祖先】「先祖」の意の改まった表現。〔「先祖」は「御先祖様」のように具体的な用例を伴って、「祖先」は「祖先の霊に」というように抽象的な意味に区別して使うことが多い〕

これを治五郎流に解釈してみよう。

 先祖㊀は、「うちの先祖は清和天皇です」と言うような場合で、あまり耳を貸す必要はない。難しいのは先祖㊁のケースだ。ここに幸平(23)という青年がいたとしよう。

幸平は、父が幸太郎(49)。幸平をかわいがってくれた祖父の幸吉は、生きていれば77歳だが65で病死した。曾祖父の幸右衛門は白寿(99)だが存命で、ずっと施設にいる。そのまた父の幸太夫は、昭和初期に何かの事件で殺されたと聞いている。

さて、幸平にとって「先祖」は誰々か。新解さんによれば「現存者以前」だから、祖父の幸吉は先祖だが、曾祖父の幸右衛門は(まだ)先祖ではない。(その前の幸太夫は、もちろん押しも押されもしない先祖である)

「御先祖様」という具体的な用例を抽象的な意味と区別して使うことは、意外に難しいものだということが分かってもらえるのではないかと思う。

「先祖代々の墓」=写真=というものに、疑問を感じる人と感じない人がいるという。不肖・治五郎は、どちらかと言えば(言わなくても)前者である。抽象的な意味で「祖先の霊」を祀る気持ちが全くないではないが、次の歌に妨げられているのだろうか。

〽 そこに私はいません 眠ってなんかいません

季節が季節でもあるし、当ブログもしばらくは〝先祖シリーズ〟が続くかもしれない。

山の神様がお怒りでなければいいんじゃが

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群馬県の防災ヘリが同県中之条町の山中で墜落して、乗っていた9人全員の死亡が確認された。長野との県境で11日に開通する予定だった登山道「ぐんま県境稜線トレイル」の視察に向かっていたという。開通は予定通りだが、記念イベントは中止された。

いつの間にか「山の日」という休日が出来ていたが、「建国記念日」とか「昭和の日」(元の天皇誕生日)とか、最近では「海の日」なども、どこかに〝皇国史観〟や〝大日本帝国〟の影が感じられたからだろう、反対する野党もいて国会が紛糾したものだ。

しかし「これ以上、休日が増えては困る」という国民は(いるにしても)少数で、お盆前後の連休を増やすことに反対する政党にメリットは何もない。

「山の日」について、最初は「8月12日」案があったが、その日は1985年にあの「御巣鷹山」でJAL機が落ちた日で、地元群馬の議員らから「その日を国民の祝日にするのは、いくら何でもアレではないか」と疑義が出され、国会も「確かに少しナニかも」ということになって、11日に落ち着いたという経緯があるらしい。

アレとナニで祝日が決まり登山道が開通する様子を、山の神=写真は、往年の特撮映画で山の神の化身とされた「大魔神」=は黙って見ているしかない。

 

民俗学的な考察(というほどではないが)によれば、山の神というものは古来「観光開発」を嫌っていた節がある。信仰心もないのに誰彼が踏み入るべきではないのだ。

今回の事故では、急激な天候悪化などもあったらしく「一天にわかにかき曇り」というイメージがある。悪い領主や代官の横暴に怒りを爆発させた大魔神が、暴れだす時の空模様を思い出さない人が一人でもいるだろうか(いや、一人もいない=反語法)。

そこで、山の麓で暮らす上州・信州の貧しい善良な村人らの声が聞こえてくるような気がするのは、治五郎だけだろうか。(たぶん治五郎だけです)

「山の上にトイレだかトレイルだとかいうもんを作るっつう話だんべ」(上州)

「きっと、山の神様がお怒りになっているずら」(信州)

ワシは迷信にとらわれたりジンクスを気にしたりするタイプでは、ま~ったくないので、事故原因の究明は科学的な調査に委ねたい。ただ、少年時代に愛した大魔神の恐ろしい形相を一瞬、懐かしく思い出したもんだから、ひとこと申しました。

 

なかなかいける「ノーナレ」

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 「ノーナレ」だなんて、また一つ意味不明のカタカナ語が出てきおった。ノーギャラやノーパンなら分かるが、西日本の一部で「無うなれ」と言ってるつもりか? と苦々しく思ったら「ノー・ナレーション」の略らしい。うぬ、猪口才(ちょこざい)な。

【ちょこ才】〔口頭〕〔「ちょこ」は擬態語。ちょっとした才能しか持っていない意で、侮蔑を含意する〕こなまいき。「―な事を言う」

 <ノーナレ 青春映像詩 甲子園に行けなかった 夢破れた高校球児物語 外国人撮影チーム密着 129人のメンバー争い> 猪口才な!

なにしろ100回記念だというので、今夏の甲子園野球大会はテレビが〝官・民〟を問わず手を代え品を代え、いろいろ毛色の変わった番組を作っている。

「ノーナレ」をやったのは〝官〟の局で、たった25分の番組=写真=だから、その内容はTV欄の< >内の説明で十分すぎるくらいなんだが・・・これが、良かった!

治五郎は、TVのナレーションというものが好きになれない。バラエティーならまだしも、ニュースの中でさえ横行している。ナレーター(というか声優)が余計な思い入れと過剰な表現によって、明るく無邪気な人物や暗くて陰険な性格を声で演じ分けるのだ。見え見えの印象操作に最近、ワシの怒りは沸点に達しようとしている。

NHKのノーナレ甲子園は、神奈川県大会で敗退したチームの選手や監督の表情と声を伝えるだけで、説明は最小限の文字のみ。感動を安売り(強制)するナレーションがないと、こうも印象が違うものかとワシは少し感動した。

 

 

「数十年に一度」という表現に問題はないか

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「変だなあ。日付が変わっても、外は静かなもんじゃないか」

 台風13号が接近して「ただでは済まない」と気象庁が言うもんだから、夫婦二人(夫の方は今春から一人前の高齢者)、部屋の隅で不安な一夜を過ごしている。

「いざとなったら、避難先は尾久八幡中学校だぞ。なに、区が避難所なんか準備している様子はない? 荒川や隅田川が決壊してからじゃ手遅れなんだ。ここはマンションの一階だから、ひとたまりもなく水没する。二階のH川さん宅も安全とは言えない。四階のN木さんや五階のS藤君とも仲良くしておくべきだった」

って、治五郎はそこまで心配性ではない(むしろ逆)。

タイトルに掲げた通り、最近の気象情報で目立つのは「数十年に一度の集中豪雨」とか「誰も経験したことがないような強風」といった、大概の日本人がビビるような警告の多さだ。

「数十年に一度」や「誰も経験したことのない」ような災害は現に起きているので、災害情報を侮ってはいけないとワシは思うが、それにしても「数十年に一度」が最近は多い。数十年どころか毎年、何件か起きているのではないか。

1959年の伊勢湾台風=写真左=では、愛知県や三重県で5000人を超す死者・不明者が出た。あれに匹敵する被害なら「何十年に一度」だが、それが先月も先々月も起きているような印象を受ける。「何十年」の希少度が落ちたと言おうか。

しかし、今夜のように「なーんだ、大山鳴動して鼠一匹」のケースに国民が慣れると、ヤバイことになる。気象庁が「来ない、来ない」と言っていた災害が来ると、彼らは失職・降格の憂き目に遭うから、来なくても「来る、来る」と警鐘を鳴らすしかない。

来なかったら、避難に備えて痛む腰に耐え、荷物をまとめた高齢者は「なーんだ」ではなく「来なくて良かった~」と感謝すべきものであるらしい。

しかし、これが繰り返されると、気象庁は「オオカミ少年」の汚名を着せられることになるのではないか。ワシが心配しているのは、そこんところなのだ。

【狼少年】㊀人間社会から隔絶し狼の乳で育てられ、人語を解さなくなった少年。㊁〔イソップの寓話で〕狼が出たと騒いで人をだまし愉快がったために、最後はおとなたちの不信を買った少年。

1960年代の初期TVアニメに「狼少年ケン」=写真右=というのがあった。ケンは㊀なのか㊁なのかって? うーん、どっちとも違うんだが・・・

今を時めく気象予報士の中に、あれを見たことがある人は何人いるだろうか。

平成最後の原爆忌

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「露命」とは「ロシアの命令」の意味ではない。

【露命】太陽が出ると すぐ消えてしまう つゆのように、いつまでもつのかあてにならない命。「内職などのわずかな収入で―をつなぐ〔=細ぼそと暮らして行く〕」

 「のうのう」は英語の「no」を強調した言葉ではない。

【のうのう】気がかりなことや煩わしいことが何も無いかのように、のんきに構えている様子。〔軽い非難の気持を含意することがある〕「―と暮らす」

治五郎は、露命をつなぐ身になって久しいくせに、のうのうと暮らしているかのように見える。と、軽い非難の気持ちを含意して言うブログ読者もいるようだ。No,no!

広島に原爆=写真=が投下されてから73年。被爆を経験した高齢者が年々、確実に減って、やがては必ずゼロになる。語り継ぐことは必要だが、「あれは大変だった」が「大変だったそうだ」と伝聞形になっていくことは避けられない。

唯一の被爆国としては、核の傘に入って安心するのではなく「核保有、許すまじ!」という国際世論の急先鋒になるべきではないか、とワシは思う。北朝鮮の核開発を阻止するだけでなく、すでに持っている大国を追及して廃棄させないことには、死んだヒロシマ市民が浮かばれまい。元安川に灯籠を流しても、核兵器はなくならない。

平成最後の原爆忌、朝刊一面の記事下にある出版物の広告をチェックしてみた。掲載料は安くないから、出版社は売れそうな本を厳選しているはずだが、ここに載った本を読んでみたくなった経験が、あいにくワシには一度もない。昨6日の広告は・・・

「おひとりさまの 死後事務委任」(税務経理協会)

「図解! わかればできる アンチエイジングとメタボ・生活習慣病対策」(幻冬舎

「目で見てわかる 介護記録の書き方」(成美堂出版)

「ドローンの哲学 遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争」(明石書店

うー、ワンワンワン! ニッポンは一体、どこへ行こうとしているのだ!

 

しようもない話だが〝ネックレスの謎〟が解けた話

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ホントに、しようもない話だから期待しちゃだめだよ。

昔々(42~43年前か)、新米記者だった治五郎は、前橋警察署の間近にある民家の二階に下宿しておった。パトカーがサイレンを鳴らして出動すれば、深夜でも気がつくようにという社の〝配慮〟だ。(新米記者に人権やプライバシーはない時代だった)

階下に住む大家は隣県の県議だか市議だかのお妾さんで、平日は小学生の息子との二人暮らし。俗世間というものを知るうえでは勉強になったが今、それは関係ない。

ある日、インスタントコーヒーを飲むのに愛用していたクリープ=写真=が残り少なくなっているのに気づいた。「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」というCMが流行っていた頃だ。

瓶の底近くに何かがあるので、取り出して見た。女性用のネックレス(首飾り)だ。安物とは言わないが高級品ではなく、しかしセンスは悪くないと思った。それにしても何故、このネックレスがクリープの底から現れたのか?

事件・事故の取材に忙殺されながら、治五郎青年がネックレスの謎に悩まされ続けた事情は、分かってもらえるのではないだろうか。

(あ~、もう書いてるうちに空しくなってきた。つまり、こういうことなんじゃよ)

 学生だった妹Aが兄の下宿を訪ね、忘れ物をした。その兄が、仲良くなった女(仮にK子としよう)を初めて自室に招いた。K子は、ネックレスを見つけて「あ、この男はフタマタを掛けているな」と確信するしかない。このようにして「クリープの悲劇」は未来永劫、世界のあちこちで繰り返されるのだ。

しかし勘違いによる嫉妬とは言え、クリープの底に〝証拠〟を隠して後日の〝告発〟を期するという発想は、なかなかのものだと思う。カワイイようでもあり、オソロシイようでもある。K子さん(仮称)は今頃、どうしてるかなあ。 

 

四谷怪談ならぬ目白怪談

f:id:yanakaan:20180804214136j:plain ©不明(誰か教えて下さい)

暑い夏だから、ちょっと怖い話をしようか。

 「目白三平」こと中村武志という作家(1909~1992)=写真=を知る人は、もうあまりいないだろう。1950~60年代に、映画化もされたサラリーマン小説「目白三平」シリーズで一世を風靡した人である。(ペンネームは、目白に長く住んだことに由来)

国鉄(JRの前身です。こんなことまで説明が必要な時代になった)の職員を定年まで勤めたが、途中から作家として有名になり、二足のわらじを履き続けた。

 彼は若いころ内田百閒の文章に心酔し、強引に弟子入り。百閒の「阿房列車」シリーズでは迷惑な見送り人「見送亭夢袋(けんそうてい・むたい)」氏として登場する。

 初めて「埋草随筆」を自費出版した際には、百閒に無理やり序文を書いてもらったが、その序文は辛辣なものだった。「この人の文章は『面白がらせよう』と思って書いている。だから、面白くない」。百閒の圧勝である。

 治五郎が目白三平に取材したのは、晩年の1990年。中野区の通称「鍋屋横丁」の山小屋みたいな自宅にお邪魔した。横丁を散策して写真部員に撮影してもらったが、ジーパン(今はそう言わないの?)、ベレー帽、ブレスレット(腕輪)。そして凝った造形のステッキ(杖)。よく言えばオシャレだが、悪く言えばキザだ。

そんな印象をにおわせた記事を書いたんだが、本人は読んで気に入ったらしい。後日、改めて鍋屋横丁に招かれ、希少品となった「埋草随筆」をもらった。

訃報に接したのは、約2年後。目白のホテルで開かれた「お別れ会」に行ってみる気になったが、時間ぎりぎりで歩道が妙に混んでいる。

前から来た老人が、すれ違った後で「おーい」と振り返って右手を上げた、その手に、見覚えのある例のステッキがあった。呼び止めようとしたが、相手はもういない。

1分後の開会寸前、ホテルに着いた。会場のホール前に故人の遺品が並べてある。アッと思った。そこには紛れもなく、さっき見たステッキがあったのである。

重箱読みと湯桶読みに抵抗を感じる理由(詳説)

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何もねえ、少し酔ったぐらいで、こんな話題を書くのに夜更かしする必要はないのに、まあ性分だから仕方あんめえ。

次のA~Eのうち、重箱読みはどれで湯桶読みはどれか。(送り仮名は略)

A.骨付(肉)=写真=  B.肉付  C.骨壺  D.売春  E.買春

正解は、B(にくづき)とC(こつつぼ)が重箱読み、E(かいしゅん)が湯桶読みである。(えっ、そうなの? と感じる向きが多いかもしれない)

小学校から中学校にかけて、訓読みと音読みの違いを分かりやすく教えてくれた先生がいる。「声に出して読んで意味が分かれば訓読み、分からなければ音読みなんだ」

だいたい当てはまるので納得していたのだが、世の中は簡単に割り切れないものだということに、やがて少年は気づく。例えば、肉(にく)も菊(きく)も音読みなのだ。

A(ほねつき)は訓+訓、D(ばいしゅん)は音+音で、全く何の問題もない。(社会的、道徳的に問題がないと言っているのではないよ)。

道徳問題は別にして、ワシが日本語として許せないのが「E」である。

「かいしゅん」といったら本来、別々な二種類の意味しかない。

【回春】〔再び春になる意〕病気が治り、心身共に元気になること。〔狭義では、老人が肉体的に若返ることを指す〕「―の喜び」

【改悛】〔「悛」は、あやまちを改める意〕 自分の犯した▵罪(非行)を悪かったと悟って、まじめになること。「―の情が著しい」

 そうだよ。「かいしゅん」とは、この二つのどちらかなんだ。買春を「ばいしゅん」と読むなら、それは全く問題ない。(道徳の話じゃないんだってば!)

しかし、それでは売春と買春を(発音上)区別できないもんだから「かいしゅん」という奇怪な言葉が作られた。あの新解さんまでもが、見出し語に掲げている。

かいしゅん【買春】⇒ばいしゅん(買春)

さすがに、その場では説明しないところに新解さんの困惑と良心が滲み出ている。では「ばいしゅん」を引いてみるとしようか。

ばいしゅん ㊀【売春】女性が金銭のために不特定の男性と性交渉を持つこと。「―婦」 ㊁【買春】男性が売春婦などと性交渉を持つこと。かいしゅん。

「かいしゅん」を日本語としては認めたくない新解さんの、苦渋の判断と言えまいか。

ところで、たまには骨付き肉を食いたくなった。(道徳上も問題あるまい)