かくてもあられけるよ

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徒然草より「神無月のころ」)

山里に出かけたら、わびし~い草庵があった。樋から滴り落ちる水のほかには何の音も聞こえない。が、よ~く観察すると人が住んでいる気配が感じられる。

「かくてもあられけるよ」(外見はこんな風でも、人間は住もうと思えばどこにでも住めるものなんだなあ)

と感心していたら庭に大きなミカンの木があって、たわわに実がなっている=写真はイメージ=。そして(盗まれないよう)周りを厳重に囲ってあった。
あ~あ、この木さえなきゃよかったのに! と、吉田兼好はシラケたのだった。

徒然草の中でも、この段は教科書で教えられる有名な個所だ。中高生が「係り結び」などの文法知識を得る上でも重要なのだろうが、治五郎くらいの年になれば、また新しい〝発見〟もある。

立派なミカンの木など、間違っても所有しないこと! これである。

 兼好が、西尾久の治五郎庵付近に迷い込んだとしよう。車道に面した賃貸マンションの一階、ベランダの外の自転車置き場には十数台の自転車があるが、半数以上は廃品で誰も使っていない。ベランダには、洗濯物などを隠すためのスダレ(税込み108円)が2枚、北風に揺れている。日中は車の行き来でうるさいが、深夜には静まり返る。

「かくてもあられけるよ」

と、兼好法師は思うのではないだろうか。

 昔風に数えると、ワシがこの草庵に入居して(年が明ければ)はや3年。マンションというものは所詮「鉄筋コンクリートの箱」なのだが、ミカンの木なんかないし、もちろん厳重な囲いは全く必要ない。「かくてもあられける」のだった。