なかなか「見納め」にならない

f:id:yanakaan:20190328182204j:plain

 桜というやつは、空が青くなければパッとしない。ほぼ満開を迎えたというのに、平日(木曜)の谷中霊園は曇り空で肌寒く、人出もこの写真(実況ではない)程度だった。人が少ないのは結構だが、以前と違って宴会禁止なのが寂しい。

3、4日前だと思ったが一昨日のことらしい。(誤差が少ないのは立派)

顧みますれば、治五郎が谷中に庵を結んだのは1999年から2011年にかけての通算12年ほどの話で、その後は女のアパート(板橋区赤塚)に転がり込んで2年、彼女との再婚後は津軽の親元に帰って4年、そこを追い出されて現在の荒川区西尾久に2年。 放浪暮らしは実に20年の長きに及ぶ。(足し算は合ってるかな)

50の峠を越えた谷中庵時代、墓地の桜を眺めながら毎年「もう、そろそろ見納めになるんじゃないか。それならそれで一向に構わないんだが」と思ってきたものだ。

【見納め】〔見ることの最後 の意〕そのものを見るのが、それで最後であること。「この世のー」

50代で死ぬ人だってザラにいるのだから、さして大げさな心事ではないと思う。

しかし、なかなかそうは物事が進まないんですね。現にこうして今年も谷中の桜を見ながら、五重塔跡の小公園で「筋子おにぎり」なんぞを食うてをる。

日暮里から墓地を通り抜け、三崎坂~千駄木~団子坂~駒込と歩いたら結構、足が疲れる。都立駒込病院のバス停に着く頃はヘトヘトだ。が、ここまで来てバスに乗れば、あとは現住居の入口前まで一直線。ほとんど素面なのに熟睡できたことでありました。