もしも高倉健がプレゼンをやったら

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ダメでしょう、それは。

「不器用な男じゃけん、うまく言えんとですが・・・」そこで急に笑顔に転じ、身振り手振りを交えながら、立て板に水のような英語で「今回、わが社が開発した商品は世界のどこに出しても恥ずかしくない傑作でございまして」

やはり、ダメでしょう。いや、稀代の俳優であるからには、そのくらい演じるかもしれんが、やはりダメじゃないでしょうか。新商品が売れるとは思えんとですよ。

日本の男は、何よりも「巧言令色」を恥ずべきこととしてきた。

【巧言令色】相手に気に入られようと、口先だけうまいことを言ったり にこにこして見せたり すること。

 今や、そんな風潮は全く廃れた。国際社会で生き延びるには、謙遜ではなく自己PR、無口ではなく雄弁・おしゃべりでなければならない。健さん受難の時代と言える。

スポーツ界でも、ぶっきらぼうで無愛想な選手はマスコミに好かれない。つい最近、引退を表明したサッカーの小笠原満男(39)(大船渡市出身、鹿島アントラーズ)について、スポーツ報知で長年担当した記者が、こう回想している。

「まともな取材が出来るようになるまで1年半、無駄話につきあってくれるようになるまで6年、愚痴を聞かせてもらえるまでは14年かかった」

治五郎はこういう男が好きなのだが、今の日本では皆が「プレゼンテーションの上手な人」を目指しているように思われてならない。次代の高倉健は現われるだろうか?

 

むかし愛読したはずの作品を読み直すと・・・

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・・・改めて感心させられる反面、ガッカリすることもある。

毎年、今の季節のテレビは(NHKを含め)各局、BKタレントが総出でBK番組に出ているので、どれも見る気にならない。YB(やぼ=野暮)を承知の上で、BKを漢字で表記するならBは馬、Kは鹿となる。

幸い、現状に不満な視聴者は何十年も前に高い評価を得た映画やドラマが見られる時代になった。ただし、毎日というわけにはいかない。テレビを離れて読書に励むという習慣が、最近は十数年ぶりに戻りつつある。

松本清張の中・短編を収めた分厚い一冊を読みだしたら、やはり面白いので熱中した。

天城越え」などは、石川さゆりの歌に影響されたのか「これだけの話なんだっけ?」と意外な気がする。大人の恋の物語では全然ないのだった。(同名の映画に出演した田中裕子の名演が印象深かった影響もありそう)

百円硬貨」という短編では妻子持ちの男に入れ揚げた女が、勤め先の金融機関から何千万円も横領し、現金で膨らんだカバンを持って遠方にいる男のもとに向かう。途中、彼に電話をする必要が生じるのだが、小銭の持ち合わせがない。

ケータイどころか、テレカ(テレホンカード。ああ、懐かしい)も無い時代だ。明け方のことなので、連絡手段は「赤電話」(ああ、懐かしい)しかないのだが、遠距離電話に必要な「百円玉」が1個もない。カバンには万札が詰まっているのに・・・。

推理作家が「百円硬貨」と題して書き始めたら、大体こういうストーリーになるのではないか、という予測は成り立つ。(しかし、やはり清張はうまい)

ところで、治五郎は手元に「新明解国語辞典」を常備しているので、読書中に寄り道することが多い。「入れ揚げる」と書いたが「入れ込む」じゃダメなのか?

【入れ揚げる】愛人や好きな遊びなどに夢中になって、自分の持っているお金などをその事ばかりに使う。

【入れ込む】〔「入れ上げる」+「つぎこむ」の混交か〕何か一つの事に夢中になってのめり込む。「大変な入れ込みよう」

新解さん。「混交」説には啓蒙されましたが、「いれあげる」の表記が「入れ揚げる」と「入れ上げる」に分裂しています。次の第八版では、どちらかに統一して下さい。

(歳末に増える高齢読書家というものは、なかなかウルサイ存在なのであった)

拘置所の居心地を想像するに・・・

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・・・そう悪くないのではないだろうか⁈

治五郎は若い頃、小菅(葛飾区)の東京拘置所に何度か行ったことがある。自分が拘置されたのではなく 政治家や有名人が逮捕された時、その人の身柄が当局の発表通り、確かに拘置所内に入ったかどうかを目で確認するのである。

入り口前に群がって大騒ぎするマスコミの姿というのは見苦しくて浅ましいが、下っ端の社会部記者としては避けて通るわけにいかない。

〽 三畳一間の小さな下宿・・・

といえば往年の名曲「神田川」の一節だが、治五郎に言わせれば三畳という広さは人間が一人で寝起きするのに必要かつ十分な面積だ。

あのカルロス・ゴーン氏も、再々逮捕されたので保釈は叶わず、この年末年始は拘置所の三畳間で過ごすようだ。

懲役刑と違って強制的に働かされることはない。もちろん酒や煙草は御法度だ(治五郎には、これが最も厳しいといえば厳しい)が、運動したきゃ運動できるし、本を読みたきゃ何冊でも読める。

食事は一日三回、カロリー低め。回数は制限されるが入浴も出来るし排泄なんか、したい放題(放題というのは変か)。

これは良い環境なのではないか? 糖尿病なんか治ってしまいそうだ(治らないが)。

しかも何十泊、何百泊しようが全部、タダと来ている。国内外の豪華なマンションや高級ホテルに住み慣れた人だって、いちど入ったら出たくなくなるのが人情というものだろう。(そういうもんじゃないんだろうが)

ゴーンさんも、滅多にない経験だから三畳間で良いお年を。メリー・クリスマス!

 

 

クジラを食いたい世代の罪

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商業捕鯨の再開に向け、日本政府が国際捕鯨委員会(IWC)から脱退する方針を固めた。過半を占める反捕鯨国が反発を強めているが、ある年齢から上の日本人としては、学校給食で馴染んだ鯨肉の味が食卓に戻るという期待をどうすることもできない。

あれは刺身、大和煮、竜田揚げなど、どう食ってもうまいものだが、極め付きはクジラのベーコン(略称クジベー)だろう。

【ベーコン】ブタなどの背中や腹の肉を塩漬けにして燻製にした保存食品。

 鯨と言えば、金子みすゞの詩に「鯨法会(くじらほうえ)」がある。

 鯨法会は春のくれ、
 海に飛魚採れるころ。

 浜のお寺で鳴る鐘が、
 ゆれて水面をわたるとき、

 村の漁夫が羽織着て、
 浜のお寺へいそぐとき、

 沖で鯨の子がひとり、
 その鳴る鐘をききながら、

 死んだ父さま、母さまを、
 こいし、こいしと泣いています。

 海のおもてを、鐘の音は、
 海のどこまで、ひびくやら。

みすゞの生地・山口県長門市仙崎に行くと、クジラ供養のモニュメント=写真①=があって、赤ちゃんクジラが母クジラの乳を吸っている。古来、肉を食って生きる人間の罪を私たち(の先祖)ほど感じてきた民族はいないのではないだろうか。

捕鯨アメリカやオーストラリアで、牛や豚を弔うという発想はあるだろうか。英語ではピッグ=写真②=とポークは別物だから、誰も心を痛めたりしない。

治五郎は、罪の意識で心を痛めながら「あ~、クジベー食いてえ!」と思う。(同じようなことを前にも書いたのを思い出すが、思い出すのは忘れたお陰である)

 

わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ

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「俺がむかし夕焼けだった頃、弟は小焼けだった・・・」

かつて松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ)=写真=という、漫談で一世を風靡した芸人がいた。治五郎は名前もよく知らなかったが、あのナンセンスな芸風は忘れがたい。生きていたら(生きているとも)、ちょうど80歳だろうか。

 治五郎がブログを3~4日も更新しないでいると、数少ない読者の一部から「おいおい大丈夫か。生きてる?」と安否を問う声が届くことがある。(滅多にないが)

生きてます。しかし明日のことは分からない。PPK(ピンピンコロリ)を理想にしている人ほど、だらだらと長生きさせられる時代だが、明日のことは分からない。

ワシの場合「あっ、昨日はブログを書いてなかったな」と気づいてパソコンに向かったら3~4日が過ぎていたということがザラになりつつある。

どうか、3日や4日で心配なさいませんように。(何か月も更新されていないようになったら、そこで少し心配して下さい)

わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ。

 

もしも雄弁な大関が、横綱昇進伝達式に臨んだら

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「慎んでお受け致します。申すまでもありませんが、私は土俵の神様によって与えられた横綱という地位がどのようなものであるか、百も承知しております。その地位を汚すことのないよう切磋琢磨、不撓不屈、不惜身命の覚悟をもって、ひたすら相撲道に邁進することをお誓い申し上げます。酒の席で若い力士を殴ったり、無免許運転をしたりすることは決して致しません。体調が回復しないからと言って、1年以上も休場が続いたら潔く引退します。親方が女将と離婚するくらいのことはあるかもしれませんが」

伝達役の協会幹部や報道陣は、一様に思うであろう。(だめだこりゃ)と。

ここで治五郎親方は、誰か特定の力士や親方を批判しているのではない。角界みんなのせいでマイナスポイントが、こんなに貯まってしまったのだ。

年賀状、紅白歌合戦、松飾り、注連(しめ)縄、おせち、雑煮など、ワシが極めて苦手とするモノたちが〝そろい踏み〟する年末年始が間近に迫って来た。が、そんなの関係ねえ!(もはや古すぎるか)

それより、大相撲初場所(1月13日初日、国技館)まで残り一か月を切ったことの方がワシには大きい(九州場所が終わったばかりだと思っていたのに)。来年は何人の横綱が消えていくんだろう。誰か伝達式に臨むような新横綱は現われるだろうか。

(「だめだこりゃ」というのは昔、ドリフターズの「もしも、こんな〇〇があったら」というコントで毎回、いかりや長介が最後につぶやいた言葉。神聖なる国技が、ここまで揶揄される時代になろうとはワシにも予想できませんでした)

 

「時代の証言者」畠山重篤

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読売新聞のロングラン企画に「時代の証言者」というのがある。長年、いろんな分野で活躍してきた著名人(従って多くは高齢)に長時間のインタビューを行い、その人の人生を通して浮かび上がる「時代」を考えるというヘビー級の連載だ。

治五郎が担当したことがあるのは俳人金子兜太と写真家・大石芳野の二人だが、楽しかった半面、こっちが心身ともに衰え始めていたので相当、きつかった。週5回 ✖ 6週=30回前後だから、早めに準備しても連載が始まるとアップアップ状態になる。

話し手のことを十分に調べておくことはもちろんだが、記事では当人の話し方や口癖も再現しなければならないから、録音機(あ、今はボイスレコーダーというんですか)を持って何度となく自宅に通わなければならない。

2カ月前、後輩の鵜飼哲編集委員から電話があった。

「ずいぶん珍しいね。5年ぶりじゃないか」

「次の『証言者』を書くことになって、いま気仙沼で取材中です。相手は畠山さん」

畠山重篤さん=写真=と言えば、ワシが当ブログに「しげぼうは牡蛎じいさん」と題して書いたばかり。初夏の頃かと思っていたが、調べたら1月26日付のことだった。(何事も、このように時間の経つのが早くなっている)

「森は海の恋人」を合言葉に、漁民による植林という発想と実践が国内外で広く理解され、著書や受賞歴も少なくない。東日本大震災の被災者でもある。連載中の「作詞家・なかにし礼」編(昨15日で終了)に比べれば知名度が低いだろうが、人間と自然をテーマにすれば畠山さんほど「時代」を語れる人はいないかもしれない。

後輩に温かい(?)ワシとしては、鵜飼編集委員の幸運を祈る。(しかしキツイぞ)

 

 

御社・弊社・拙者

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<読者のみなさまへ 本紙購読料改定のお願い>という一面社告が、12日の読売新聞朝刊に載った。

 <読売新聞社は1月1日から、朝夕刊セットの月ぎめ購読料を現在の4037円(消費税込み)から363円引き上げ、4400円(同)に改定いたします。>

「う~む、やはり相当に苦しいのだな」とは、同社OBだけに納得できるような気がするのだけれども「改定のお願い」とは、いかがなものだろうか。

「改定させてほしい」ではなく「改定します。ごめんね」という趣旨だから、正しくは「改定了承のお願い」だろうが、まあ、文字数の節約が新聞の宿命ではある。

 本体価格(税別)の値上げは25年ぶりだそうで、販売店の経営難や人手不足などの事情を考えればよく頑張った方だろう。新聞社は、どこも値を上げる前に音を上げていた。日経に続いて読売が値上げに踏み切ったからには、他もすぐ追随するはずだ。

現在の読売新聞本社=写真①=を、治五郎は知らない。一度も入ったことがない。初任地を除く約30年を旧社屋=写真②=で過ごした。定年退職を迎えた2013年当時の居場所は東銀座にあった仮社屋で、そこは直前まであの「日産」の旧社屋だった。

 自分が強く望んだことだとは言え37年間、ワシは編集局以外に勤務した経験がない。新聞社も営利企業だから、販売・広告など多くの部局があって、そこでは一般の企業と同じように「御社」「弊社」という言葉が飛び交う「商い」の現場なのだが、ワシはそういう自覚が皆無。原稿を書くこと以外に何の興味も取り柄もない。

 もしも編集を離れて他の部署に異動させられていたら早晩、心身症鬱病になっていたに違いないが幸い、そうはならずに初期認知症を迎えることが出来た。それもこれも、スポンサーに平身低頭して広告を取る営業マンや、雨の日も風の日も新聞を配達する販売店があるお陰だということは、ワシもよく理解していた。

 新聞経営は今後ますます、厳しい環境に置かれることは避けられまい。他人事のように言っていてはいけないのだろうが、ワシにはどうすることも出来ない。

 

 

 

 

かくてもあられけるよ

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徒然草より「神無月のころ」)

山里に出かけたら、わびし~い草庵があった。樋から滴り落ちる水のほかには何の音も聞こえない。が、よ~く観察すると人が住んでいる気配が感じられる。

「かくてもあられけるよ」(外見はこんな風でも、人間は住もうと思えばどこにでも住めるものなんだなあ)

と感心していたら庭に大きなミカンの木があって、たわわに実がなっている=写真はイメージ=。そして(盗まれないよう)周りを厳重に囲ってあった。
あ~あ、この木さえなきゃよかったのに! と、吉田兼好はシラケたのだった。

徒然草の中でも、この段は教科書で教えられる有名な個所だ。中高生が「係り結び」などの文法知識を得る上でも重要なのだろうが、治五郎くらいの年になれば、また新しい〝発見〟もある。

立派なミカンの木など、間違っても所有しないこと! これである。

 兼好が、西尾久の治五郎庵付近に迷い込んだとしよう。車道に面した賃貸マンションの一階、ベランダの外の自転車置き場には十数台の自転車があるが、半数以上は廃品で誰も使っていない。ベランダには、洗濯物などを隠すためのスダレ(税込み108円)が2枚、北風に揺れている。日中は車の行き来でうるさいが、深夜には静まり返る。

「かくてもあられけるよ」

と、兼好法師は思うのではないだろうか。

 昔風に数えると、ワシがこの草庵に入居して(年が明ければ)はや3年。マンションというものは所詮「鉄筋コンクリートの箱」なのだが、ミカンの木なんかないし、もちろん厳重な囲いは全く必要ない。「かくてもあられける」のだった。

あっぱれな風貌

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日本のことがあまり知られていない国を訪ねると、子供たちからよく聞かれることがあった。「カラテは出来る?」「ニンジャの知り合いはいない?」

相手がオジサンだと「ハラキリやゲイシャは今も現実に存在するのか?」という質問を受けることも少なくない。国際理解の難しさを考えさせられる。

空手がオリンピックの正式種目になったからなのか、世界中で空手人口が急増しているそうだ。「形」と「組手」があるが、どちらも各国で強豪がひしめきだした。

日本で「形」の第一人者は、男子の喜友名諒と女子の清水希容=写真©共同通信=。組手と違って「仮想敵」が相手だから、実戦でも強いのかどうかは分からない。

治五郎などは〝一種のコケオドシ〟と見くびっていた節がある。

【虚仮脅し】〔物を見る目が無い人を驚かす程度の飾り物の意〕実質はそれほどでもないのに、いかにも相手を▵おどす(驚かす)ような▵こと(もの)。

しかし、喜友名や清水の試合というか演武を見れば、己の不明を恥じる気持ちになる。第一、風貌(面構え)がいいやね。裂帛の気合いが〝半端ない〟し、〝めちゃカッコいい〟のだ。刃物を持った何十人の暴漢に囲まれても「これなら大丈夫」と、安心していられる。(それはどうかな)

にわかファンになってしまった治五郎であります。