「放浪者」が「定住者」から同窓会に誘われる

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断っておくが、上の写真は治五郎ではない。(少し似ているかもしれないが)

 同期入社の(元)記者仲間から同期会に誘われたと思ったら、翌々日の晩には大学の同窓生から数年ぶりに電話がかかって来た。

「T内だけど・・・覚えてる?」

「お・・・覚えてるとも」

T内は竹Uと表記しても間違いではない。(早い話が竹内なのさ)

40年前の学生が3人集まったら「ところで、彼(治五郎)は生きているのか」という話題になったらしい。「なんだか、新聞社を退職してからが大変らしい」「離婚して再婚したんでしょ?」「その相手というのがモンゴル人なんだよ」

今そこで一緒に飲んでるというA山=青Y(♂)、F藤=服T(♀)の顔も、まだまだ忘れちゃいない。(それぞれに年相応の外貌変化はあるんだろうが)

思えば、わが母校は教育大だったから、みんなが「教育」または「学問」、あるいはその両方に情熱をたぎらせていて、多くが教師か学者になった。将来の仕事に「面白さ」や「珍体験」ばかりを求めていた感のある治五郎青年とは違って、根が真面目なのだ。

この連中から同窓会に誘われれば、むげに断るわけにもいくまい。しかし、ワシみたいな隠居がヨロヨロと出かけるのも少し気が引ける。(上の写真は別人だってば)

 

「火宅の人」が「帰宅の人」から同期会に誘われる

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「火宅の人」といえば普通、文壇で〝最後の無頼派〟と呼ばれた檀一雄(1912~1976)の小説や、同名の映画(1986年、緒形拳主演)を指すだろう。

火宅のイメージとしては、上の写真のようなものが正しいのではないかと思う。

【火宅】〔火事にあって燃え盛る邸宅の意〕〔仏教で〕煩悩の止む時が無く、安らぎを得ない三界。

三界(さんがい)について説明を試みると、治五郎の手には負えなくなるから割愛。

 読売新聞記者の1976年(昭和51年)入社組は、よく〝花の51年組〟と呼ばれる。(呼んでいるのは当事者たちだけ。オイルショック後の不景気で採用人数が例年よりグンと少なかったのは確かだが、〝花〟の根拠は何一つない)

入社式に臨んだのは確か17人で、東日本の各支局に一人ずつ配属された。試験の成績が良かったと思われる上位三人が、2~3年で次々に辞めた事実からも、当時の労働条件や職場環境の厳しさが伺われる。(もちろんパワーハラスメントなどというものは、実態はさておき言葉としてはまだ全く存在していなかった)

 入社当時から治五郎と妙に馬が合ったのがK林(小Bでも可)で、同じ文化部でも10年ぐらい一緒だった。ワシを陰・暗・鈍とすれば、彼は陽・明・鋭と表現されるべき存在で、合うはずはないんだが、なぜか合う。(世の中では、よくある現象)

互いの実生活を観察するともなく観察するうちに、いつしか彼はワシのことを「火宅の人」と呼び、ワシは彼のことを「帰宅の人」と称するようになった。

【帰宅】自分の家に帰ること。

「おっ、帰宅の人。もう帰るのか」「やあ火宅の人。羽目を外すなよ」てなもんだ。

K林こと小B(要するに小林だ)は、のちに中央公論新社の社長になり会長にもなり、その職責を全うした同期生中の〝出世頭〟なのだが、今でも「火宅の人」の暮らし向きを気にかけてくれているらしい。

先週、彼から電話があって「久しぶりに同期会の話が持ち上がっているんだけど、来られない?」と言う。いろんな同期生の顔が浮かんで、つい「行くよ」と答えたが、自称〝世捨て人〟としては、いかがなものだろう。

この系列の話、ブログで今後しばらくは続くかもしれない。あしからず。

とうどく【悼読】文筆家の死を▵哀悼(記念)して、その著作を読むこと

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弔読(ちょうどく)とも言う。(ウソです。どちらも辞書には載っていない。それもそのはず、これらは治五郎が勝手に発明した語彙なのである)

各時代の優れた文筆家というものは、太宰治三島由紀夫を引き合いに出すまでもなく、死ぬ瞬間まで何をしでかすか分からない危うさがあるので(生存中は)評価を定めがたい。しかし死んでしまえば、こっちのものだ。

かん【棺】死者を葬るために遺体を納めるもの。「―をおおうて事定まる〔=その人の真価は生前の評判には必ずしもよらず、死後に定まるものだ / ー桶〕

2か月前に81歳で亡くなった文学研究者の十川(とがわ)信介という人をワシは名前しか知らなかったが、せっかくの機会だから「近代日本文学案内」(2008年、岩波文庫別冊)=写真=を悼読(弔読)してみた。

<㊀時代の主流を形成してきた立身出世の欲望 ㊁現実社会に飽きたらぬ、またそこからこぼれ落ちた人びとが紡いだ別世界の願望 ㊂新たに登場した交通機関、通信手段と文学との関わり――三つの切り口による近代日本文学の森の旅案内>とある。

 かなりの数の作家と作品が登場して、大学の教養課程の教科書にはピッタリの内容だと思うが、それゆえにワシが敬遠していた節はある。が、読んでみると<三つの切り口>はなかなかの着眼で、特に「他界と異界」を扱った第二章は圧巻。

「そのテーマで書くからには、よもや、わが内田百閒先生が欠落するようなことはありますまいな!」と身構えて読んだが、何ページかを彼に費やしていて内容も一応、納得できるものでホッとした。(21世紀の読者としては川上弘美あたりも加えてほしいが、それはまた次世代の文学研究者の仕事だろう)

全体として、今回の悼読=弔読は実りが多かった。ところが、先週はまた文芸評論家の高橋英夫さんが88歳で亡くなった。何冊か読んでいるが、印象は今ひとつ。せめて岩波新書西行」ぐらいは再読しないことには、故人に申し開きができない。

教訓:悼読とか弔読とか、自分の都合で新奇な言葉を発明してはいけない。

ある賢い小学生との対話

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「ねえねえ、ご隠居さん」

「何だね」

「普通の人が国を相手に損害賠償裁判を起こすことがありますよね」

「あるけど・・・例えば?」

「騒音公害とか冤罪被害とか、例は幾らでもあるでしょう」

「うん、それで?」

「裁判で国が負けると、何億とか何千万とかのお金を払わなければなりませんよね。そのお金は、どこにあるんですか? 基は国民の税金なんでしょ?」

「まあ、そうだけど」(厄介なガキが現れたなあ)

「うちの貧しい両親が、ごくごく一部とはいえ、どうして失政の尻拭いをしなければならないんでしょうか。ドン!」(それはワシが言いたいんだ。ドン、ドン!)

「ところで、ご隠居さんは森鷗外の『最後の一句』を読んだことがありますか?」

「う~ん、何だっけ。誤審で処刑される父親の身代わりを申し出た娘が、死を前にして見事な俳句だか川柳だかを作ったんだったか何だったか、そんなような・・・」

「ブー。彼女は、役人たちの前で『お上の事には間違いはございますまいから』と言った。居並ぶお偉方は皆、この一言にノックアウトされたのです」

「ああ、そうだったそうだった」(しかし、このガキは何者だ? 末恐ろしい)

 

よくぞ届いた「雪渡り」

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先週土曜日の午前8時半ごろ、携帯が鳴った。080ーで始まる発信元に心当たりはない。(ろくな電話じゃないな)と警戒しながら出ると、「ヤマト運輸のダレソレです」という。ダレソレだけなら応じないところだが、宅急便だという見当はついた。

「何か」「一升瓶のお届け物があるんですが、届け先が分かりません」「えっ」「荒川区西尾久101って、どこでしょう?」

ははあ、住所が大胆に省略されていたわけだな。「西尾久〇の〇〇の〇の101」の〇部分を教えてあげたら、午後には無事に届いた。宮城県大崎市の銘酒「雪渡り」(500本限定の新酒)=写真=の送り主は、もちろんO野画伯だ。

最近は開店休業状態のサンド会に送ってくれたわけだろうが、この日も結果的に参加者はゼロ。やむなく1本まるごと飲ませていただいた。うまい!

しかしO野さん、送り先が「西尾久101」じゃ郵便物も宅配便も届きませんよ。

画伯より少し年下ながら、この種の失敗では先輩格のワシだからこそ言えるのですぞ。(胸を張るな)

人手不足のクロネコヤマトさんは、ご苦労さま。いろんな客がいて大変でしょう。

「くもりガラス」論争の発端となったサスペンス映画

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若者にはピンと来ないかもしれない。ヒッチコック監督の「裏窓」(1954年)=写真=である。出演はジェームズ・スチュアートグレース・ケリーほか若干名。

 主人公(雑誌カメラマン)は足の骨折で身動きできず、暇だから毎日、双眼鏡や望遠カメラで向かいのアパートの部屋部屋を〝観察〟しているのだが、やがて真正面の一室の異変に気づき、殺人発生を疑う。友人の刑事を呼んでも信用してもらえない。探偵の助手を務めてくれた恋人や家政婦が危険に巻き込まれる。終盤のスリルが素晴らしい。

カーチェイスや空撮どころか、屋外ロケが全くない。こちらの一室と向かいのアパート数室(たぶん、セット)だけが舞台だから、俳優の出演料以外はほとんどタダだろう。こんなに安上がりなアメリカ映画を、治五郎は「12人の怒れる男」しか知らない。

何度も見た「裏窓」だが、今回は住環境ということを考えさせられた。1950年代のニューヨークはあれほど開放的で、向かいのアパートの室内が丸見えだったのだろうか。プライバシー保護のカケラも感じられない。

翻って、2010年代の日本>東京>西尾久のアパート(賃貸マンション)を考察してみよう。1階だと「階下」が見えないのは当然だが、高層階であっても一般に、他の部屋の入居者が見えることのないよう、設計が見事に工夫されているようだ。

ここで欠かせないのが「くもりガラス」である。湯気などで曇ったガラスではなく「すりガラス」と同義。太陽光は通すが、人の眼を遮断するやつだ。

わが1階のベランダに出ると、北隣のアパート(賃貸マンション)の窓が1階と2階に二つ見える。どちらも曇りガラス=磨りガラスだ。

1階に人が住んでいる気配はない。何かの倉庫にでも使っているのか、部屋に明かりがつくのは月に1度か2度。磨りガラス越しに、パソコンらしい物だけの光が常に稼働(数分おきに点滅)しているのが分かる。

2階はと言えば、ワシが隣の棟に入居して以来、部屋が消灯されているのを一度も見たことがない。つまり、電気つけっ放し。磨りガラス越しにカーテンの隙間が10センチほど開いていて、その状態に1年365日、少しの変化もない。

ヘンではないか? 治五郎の通報を受けた尾久警察署員が踏み込んだら、白骨死体が見つかったりするのではないか?

と思っていたら3日ほど前から、その部屋が真っ暗になった。カーテンもピッタリ閉まっているようだ。

気になる! サスペンスは、映画よりも日常にあるのかもしれない。

大川栄策「さざんかの宿」と「くもりガラス」論争

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 不倫の愛を、サザンカの花=写真右=に託した演歌の話から始めましょう。

〽 くもりガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか

歌手の大川栄策をして(あの顔にもかかわらず)一躍、演歌界の大スターに駆け上がらせた「さざんかの宿」(吉岡治・作詞)の冒頭だ。世間が「曇りガラス」について抱くイメージに、治五郎は昔から違和感があった。

【曇りガラス】すりガラス。

【磨りガラス】表面を金剛砂などですって不透明にしたガラス。つや消しガラス。くもりガラス。

拭いても外は見えません。しかし、くもりガラスというものに、実は二つの概念があるのではないでしょうか? 新解さん以下、辞書は一つの概念しか示していません。

歌の主人公が「手で拭く」のは、磨りガラスでしょうか? 室内と屋外の温度に高低差が生じ、窓ガラスが一時的に曇った状態になった物のことも「曇りガラス」と呼ぶのではないでしょうか? 「湯気で眼鏡が曇る」時のように。

「あれ? このガラス、拭いても拭いても外が見えないな。あ、もともと磨りガラスだったのか」って、それだとまるで志村けんのコントじゃありませんか。コミック・ソングになってしまう。

ワシがイメージしてきた「さざんかの宿」の冒頭は、次のような状況である。

雪国の温泉宿(または夜汽車の中)に、あてどない二人きりの男女が座っている。男の方が、濡れた窓の曇りを「手で拭く」。拭けば、その部分の曇りは消えるが窓外は漆黒の闇だ。男を見つめる女が、けだるい声で聞く。「あなた明日が見えますか」・・・

 妻に「この『くもりガラス』は磨りガラスのことだと思うか」と聞いたら、そう思うという明確な答えが返ってきた。「拭いて曇りが消えるようなら、絶望感が伝わってこないもの」。う~ぬ、こしゃくな!

【小癪】なまいきで、その存在が ちょっと癪にさわる感じがする様子だ。「―な奴」

歌における「くもりガラス」の真意は作詞者(故人)に聞くしかないのだが、今となっては叶わない。調べたり考えたりしているうちに日は過ぎて、またブログ読者から「生きてるか?」と心配されるようになった。生きてますよ。

まだまだ寒いうちには入らない

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日本全国が寒波に見舞われて北海道では連日、TVリポーターが濡れタオルを振り回して「あ、凍りました!」と驚いてみせている。が、それはまだ甘い。

治五郎も、実はまだ厳冬期のモンゴルへは行ったことがない(今後も行く機会はなさそうな気がする)。が、タオルが凍るくらいなら4月中旬に経験している。マイナス40度や50度以下の真冬には「うっかり深呼吸すると、肺をやられる」そうだ。

 数年ぶりに知人の消息を尋ねたら「彼は去年の冬、友達の家を訪ねた帰りにマルガイを置き忘れたので、頭をやられて死んだ」と言われ、冗談かと思ったら本当だった。マルガイというのは帽子のことで、以来この単語は頭にこびりついている。

そのくらいの気温になれば立ち小便をした時、オシッコが弧を描いたまま凍るそうで、泌尿器関係の損傷を防ぐには、体を横に回転させながら用を足す。うまく一回転できれば螺旋形のオブジェが完成するという話も聞いたが、真偽のほどは分からない。

 ウランバートル市民は、どうやって寒さをしのいでいるのか? これが、心配ご無用。戸外へ出るのは命がけだが、家(集合住宅)の中ではTシャツ1枚で過ごしている。社会主義時代の遺産で全戸、スチーム暖房が完備しているのだ。

集合住宅ではないゲル(遊牧民古来の移動式テント)は大丈夫なのか? 心配ご無用。ゲルの構造が独特で、ストーブに入れるアルガリ(乾燥した牛糞)の火力と保温力が半端ない。あ~、今の季節のモンゴルへ行きたくなった。

後輩記者の活躍を寿ぐ

f:id:yanakaan:20190209105935j:plain ©手塚治虫

おととい(9日付)の読売新聞朝刊は、元文化部記者の古老・治五郎にとって少なからず感慨深いものがあった。まず、ロングラン「時代の証言者」欄が取り上げた「森は海の恋人 畠山重篤」が、36回目をもって無事に大団円を迎えたこと。筆者の鵜飼哲夫・編集委員は、おそらく読書量とおしゃべりの量では社内随一だろう。あんなにしゃべっていて、なぜ本を一日に何冊も読めるのか不思議でならなかった。

もう一件は<平成の傑作マンガを、手塚治虫さんの作品を手がかりに読み解く>連載が始まったことだ。「マンガのくに」と題し、手塚の没後30年の日を選んでスタートした企画は、一部で〝オタクの元祖〟とも呼ばれるサブカルチャー通の編集委員石田汗太が執筆する。

この二人、タイプは違うがワシから見て共通するのは「自己実現」に執着しているという点にある。ワシが酔っ払っての説教や議論はよくやったが、不愉快な思い出は一つもない。(相手の感想は違うかも知れんなあ)

だいぶ年下だと思ってきたが、どちらもそろそろ60歳。定年が見えてくる頃だ。(最近は、ワシみたいに60でスパッと辞める人など珍しいらしいが)

そんな年になって、鵜飼も石田も「ライフワーク」に目覚めているのではないかと思える。書ける間に何を書くか。書かないうちは死んでも死にきれん。そんな思いが募っているのではないだろうか。応援したい! という気分になる治五郎であります。

酒と泪と雄と雌

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「雌雄(しゆう)を決する」とか「雌雄を争う」とか言う。

【雌雄】㊀〔動物の〕めすと おす。「ひなのーを鑑別する/ーを決する〔=優劣を決める〕/ー〔=勝ち負け〕を争う/誰(タレ)か烏(カラス)のーを知らんや〔=互いに似ていて、その区別がなかなか分からないたとえ〕」(以下略)

カラスの件はご愛敬としても、雌雄のオスは優・勝に、メスは劣・敗にそれぞれ対応している。「それって変じゃありませんこと?」と、かつては異を唱えるウーマン・リブ(懐かしいな)の声が強かった。

性差については時代遅れと言われた新解さん新明解国語辞典)は4版以降、譲歩を迫られ続けてきたが、今や現実社会を見れば男女の優勝劣敗は逆転している。

【雄雄しい】普通なら避けたいと思う危険や困難に、勇気をもって立ち向かう様子だ。〔男性の理想的な姿を形容する語〕↔女女しい

【女女しい】難局に身を挺して立ち向かうだけの勇気がなく、危険や困難に出会うとすぐ くじけてしまう様子だ。〔おもに男性について言う〕↔雄雄しい

ほろ酔い気分で新解さんと付き合っていたら、「雌伏」という言葉にも出合った。

【雌伏】〔雌のごとく他に屈従する意〕実力を養いながら活躍の日を待つこと。〔無能力な人が何もせず月日を送ることではない〕↔雄飛

この〔 〕内は何だ? 最近はそういう誤解をする人が多いということなんだろうけれども、辞書が「―ではない」と念を押すかなあ。ま、「雌伏」という言葉が治五郎への当てこすりではないことが分かってホッとしましたけどね。