いびきと年齢
こう見えても治五郎は、最初から無条件に辞書(新解さん)に頼ることを潔しとしない。調べる前に、自分だったらどう定義するかを考えてみる。
例えば「いびき」とは何か。ワシなら「音の出る寝息」とでもしよう、と一応〝たたき台〟を用意してから新解さんに当たるわけである。
【鼾】眠っている時に、呼吸と共に鼻・口から出す、うるさい音。「高ーをかく/人のーは気になるものだ」⇒寝息
【寝息】睡眠中の呼吸(音)。「安らかなーを立てる/-をうかがう」⇒いびき
さあ、お立合い。「うるさい」か「安らか」かは、寝ている本人以外の誰かが感じる主観であって、本人にとってはどっちでもいいのだ。となると「音の出る寝息」の方が、簡潔なうえに客観的だと言えまいか。(自慢している)
自分の背中は、鏡がないと見ることができない。同様に、自分の寝息を聞くことはできないのが普通である。ワシは20代前半の独身時代、探求心が旺盛だったから、当時の若者には必需品だったラジカセ=写真=を使って自分の寝息を録音してみた。
いびきが相当うるさい時もあれば、死んだように寝息が安らかな時もあった。(当たり前か)
あれから40年余、老境に至ったら「うるさい」時と「安らかな」時の落差が少なくなってきたようだ。夜通し読書・翻訳をすることの多い妻によると、未明にワシの携帯(マナーモード)が何分間もブルブル(というかゴーゴー)鳴り続けていると思ったら、いびきだったということが多々あるそうだ。
音量が一定で等間隔ということだろう。(それがどうしたという話だが)
仲よき事は美しき哉。されど
① ② ③
それは武者小路実篤先生の画文=写真①=の言う通りなんだが、治五郎は実社会というものが「美化・様式化されたものとは違って、複雑で、虚偽と欺瞞に満ちている」と教えられているから、南北首脳会談=写真②=の中継を見ても簡単には納得しない。
朝から晩まで、その映像を見せつけられると正直言ってウンザリする。「昨日の敵は今日の友」と言うが「昨日の友は今日の敵」とも言うし、かつては「きのうの敵は今日も敵」というTVドラマ(TBS)だってあった。
国と国との関係に限らずスポーツ界も同様で、試合の敵・味方なら問題ないが大相撲、レスリング、サッカーなど競技団体内部の暗闘が絶えない。
「寝耳に水」で解雇されて怒り心頭のハリルホジッチ監督(65)=写真③=が来日、記者会見するというので〝恨み節〟をじっくり拝聴しようと楽しみにしていたのだが、板門店からの中継が長すぎるもんだから、ほんの一部しか聞けなかった。
彼の言い分は、要約すれば「誰も私をリスペクト(敬意を表明)してくれなかった。私のやり方に不満があったら、なぜ、その場で直接に言わないのか。ドン!」ということのようだ。
あっ、そういうことを言うから、日本じゃリスペクトされないんだよ、ハリル。
彼のことが治五郎は嫌いじゃないんだが、日本に3年いても日本語に興味がないくらいだから、日本人の精神文化の基層にあるものが分かっていないと思う。
まず、日本人は大事なことを口に出して言わない。「言わぬが花」であり「以心伝心」なのだ。「〽 俺の目を見ろ なんにも言うな」「男は黙ってサッポロビール」の世界とでも言えば分かりやすい(たとえが古すぎて分かりにくいか)。
確かにハーフタイムにロッカールームで「ホンダ・・・」と、黙ったままジーッと目を見つめられたら、本田だって困惑するだろう。何か誤解をしないとも限らない。
ひとことで言うと、日本における監督と選手の間に横たわるコミュニケーションの問題は、コトバ以上に「魚心」と「水心」の関係に集約されるのではないだろうか。
【魚心】「-有れば水心〔=対人関係で、一方の意向次第で、他方もそれに応じようとすること〕」
ハリル監督、さよなら。ワシは結構、采配ぶりを評価していた方なんだよ~。
〝山口メンバー〟は「号泣」したか?
江戸時代中期に恋川春町という戯作者がいて、狂歌なども得意とした。この人には「酒上不埒」というペンネームもあった。「さけのうえの ふらち」と読む。
【不埒】言動が限度を超しており、許しがたいと思われる様子だ。
300年の時空を超え、また世代や生業の別なく、酒の上の不埒というものは「永遠に不滅」なのだなあと悟らせる事件が、また一つ明らかになった。
強制わいせつの加害者とされる男=写真左=が超のつく有名人・人気者だったことを除けば、事件の〝不埒度〟は低い方だろう。東京では毎夜、何十件も起きている。
真相や結末・影響については、芸能マスコミが明日以降も(しばらくは)ここぞとばかりに追求するだろうから、治五郎なんかが出る幕ではない。が、ワシには「言葉」の面で、どうも腑に落ちないことが二つある。
一つは、テレビやスポーツ紙が急に使いだした「山口メンバー」という呼称。逮捕されることなく示談が成立したので「山口容疑者」とは言いにくく(ファンと読者への〝忖度〟もありそう)、かといって「山口さん」や「山口氏」では世間に通用しない。初報段階で「容疑者」を用いているのは読売新聞ぐらいのようだ。
こういう場合は「肩書を用いる」という原則があるらしく、「平尾受刑者」とか「永井研究員」とか、正体がぼかされる結果になりがちだ。山口メンバーは確かにTOKIOというグループの一員だが、「メンバー」というのは肩書なんだろうか。
もう一つの疑問。スポーツ各紙(ネット版)の多くは「号泣会見」を見出しにしているけれども、彼は謝罪会見で「号泣」しただろうか?
【号泣】(涙を見せたことのないような一人前の男性が)感きわまって大声をあげて泣くこと。
そうだよ。大声をあげなければ「号泣」とは言わんだろう。ホンマモンの号泣など、今どき滅多に拝めるものではないのだ。
もう4年も経つのか、と感慨に浸るが2014年に兵庫県の野々村とかいう県議=写真右=が、政務活動費の不正使用に関して「号泣会見」を開いた。あれが正しい「号泣」だと思う。(ちょっと懐かしいな。ヤツは今どうしてるんだろう)
「いたちごっこ」を説明する情熱
新解さんファンの間では昔から有名な、イタチ=写真=に関連する語釈がある。
【鼬】赤茶色で尾の太い小動物。夜、他の小動物を捕らえて食い、敵に追われると悪臭を放つ。〔イタチ科〕
ここまでは、別にどうということもない。驚くべきは「鼬ごっこ」の語釈である。
ーごっこ〔江戸時代後期にはやった子供の遊戯〘=向かい合った二人(以上の人)が「鼬ごっこ鼠(ネズミ)ごっこ」と唱えながら互いに相手の手の甲をつまんでは順次その手を重ねていくことを際限無く繰り返す遊び〙に基づく〕利害などの対立する立場にあるものどうしの間で、一方が他方を抑えて優位に立とうとするが、相手に対抗措置をとられて失敗に終わるということを交互に繰り返し、果てしなく攻防が続くこと。また、その攻防。「麻薬密輸業者と取締官とのーが続く/新しい農薬を開発しても、じきに害虫に耐性ができ、更に新薬を開発しなければならないというーが繰り返される」
なんだか、読んでいるだけで疲れませんか? 書き写していると、もっと疲れます。(ワシの場合は脳と目と手のトレーニングというか、リハビリのつもりだから苦しゅうないが)
江戸時代後期の子供の遊戯「鼬ごっこ鼠ごっこ」を自分でもやってみたくなるではないか。こうなると、もう治五郎ごときが論評を加えているような場合ではない。
「へい、新解の旦那、よっく分かりやした。『いたちごっこ』という言葉の因って来たるところ、及び現代における正しい用法が一点の曇りもなく理解できます。恐れ入りやした!」と、ひれ伏すしかないのである。
世論調査とワタクシと円グラフ
国政選挙が近づくと新聞やテレビが世論調査を行い、その結果を報道する。
あなたは投票に行きますか? 結果は「必ず行く」が40%、「なるべく行く」が25%、計65%だ。おいおい有権者諸君、かつてそんな高投票率が実現したことがあるか?
みんなテキトーに答えている。電話などによる世論調査にしても街頭インタビューにしても、国民が本音を漏らすことは滅多にない。取材側が「選んでいる」実態もある。
例えば新橋駅前で、興奮気味のリポーターが「イギリスの王子に第3子が無事に生まれました! ご感想は?」とマイクを突きつけてくる。ワシはそんな経験がないが、こう答えるだろう。「別に。結構なことでしょうが全然、興味がないので」
こんな〝一国民〟の冷たい声がテレビでオンエアされることは絶対に、ない。「あらまあ、おめでたい! 男の子ですか女の子ですか」「名前はどうなるのかしら」
こういう意見しか放映されないのだ。そんな英王室ファンの声を新橋で聞きだすまで、リポーターも結構、苦労しているのではないだろうか。
国民全体の意見を分かりやすく表現するために、よく円グラフ=図=が用いられる。ほとんどが「賛成」「どちらかといえば賛成」か、「反対」「どちらかといえば反対」に二分されるが、国民の意見って、そんなものだろうか。
多くの人が、実は何も分かっていないのではないか? 北朝鮮問題にしても憲法改正問題にしても、真剣に考えたことがないと公言したら末代の恥だから、一応は知っている風を装って適当に答えているだけなのではないか?
円グラフの中でワシが共感を覚えるのは、時計の文字盤で言うと11~12の間に位置する「答えない/分からない」と応じた少数派。とても正直な人々だと思う。
車道の真ん中で猫をサン付けで呼ぶ老人
何を隠そう、それはワシのことです。
夕方4時半ごろ、家の前の車道を手前から向こうへ走って渡る青年がいた。手に小さな段ボール箱を抱えている。見ていると、車道の真ん中で何かを落とした。
貴重品だったら困るだろうと思い、うっかり飛び出さないように気をつけながら、車道に出て落とし物を拾った。汗拭き用のタオルである。車道のこっち側にヤマト運輸の配達車が止めてあって、クロネコヤマトの宅急便であることが知れた。
ワシは思わず叫んでいた。「黒猫さーん!」
しかし青年はもう向かいのマンションに姿を消している。(宅配業界は昨今、深刻な人手不足に見舞われているから、彼らは常に走って仕事をしなければならないのだ)
車道の真ん中に立って黒猫をサン付けで呼ぶ老人は、かなり目立ったらしい。歩道上で帰宅途中の女子高生が何人か、足を止めて(どこに黒猫=写真=がいるの?)と不思議そうに見ている。
しかし、こういう場合に名も知らぬ青年を何と呼べばいいのだ。「大和さん」じゃ旧知の仲みたいだし、「お兄さん」じゃ新宿2丁目あたりの客引きみたいだ。
仕方がないので、いったん車道を渡り切ってマンション前で「黒猫さん」を待つ。2~3分で出てきたので、今度は冷静に話しかけた。「黒猫さん、これ・・・」「あ、落としましたか? わざわざ済みません」
まったく「わざわざ」である。これを「年寄りの冷や水」と言う。(言わないか)
よく分からない「シイタケの恐怖」
つねづね申し上げているように、治五郎には食べられない物が一つも無い。(もう歯がナニなので硬い物はアレだが)。昭和2年生まれと3年生まれの両親が、食べられる物より食べられない物の方が多いのとは対照的で、遺伝の不思議を痛感する。
ワシには一つ違いの妹Aと11歳下の妹Bがいて、二人ともどちらかといえば好き嫌いの少ない方だが、一つだけ例外があって、それがシイタケ=写真=だ。
兄(ワシ)はシイタケ大好き人間で、鍋物などは何が無くてもシイタケだけは入っていないと気が済まないのだが、妹二人は正反対。これは何なんだろう。
例えば「茶碗蒸し」にシイタケが入っていると、とても喉を通らないのだと言う。あれは付けマツゲか昆虫に見えないこともないから気持ち悪いのかと思うと、そんな見た目の問題ではなく、においや味という本質的・根源的な理由があるらしい。
妹Aなどは「あれは邪悪な食品だ」と、シイタケの精神性にまで言及する。不倶戴天の敵なのだ。(そこまで言うかなあ)
【不倶戴天】相手に対して一緒にこの世に生きていたくないという気持をいだくこと。「-の敵〔=何としても許せないと思っている相手〕」
他のキノコ類(シメジ・マイタケ・ナメコなど)は平気なのに、シイタケだけは絶対に許せないようだ。ワシにはよく分からん。
ところが、こういう「シイタケ恐怖症」に苦しむ人は意外に多いらしい。野菜だと、ニンジンが駄目だとかピーマンだけは勘弁してほしいという子供がいるのは承知しているが、シイタケもまた一方の雄なのであった。
あゝ、かわいそうなシイタケ。今夜あたり、網で焼いて食ってあげようかな。
「山月記」を絵で見る
自称「百閒病患者」の治五郎ではありますが、内田百閒の文章しか読んでいないかというと、そんなことはありません。確かに百閒文学は出合ったが最後、「中毒」「依存」から逃れられなくなる覚醒剤みたいな存在で、村上春樹の新作を読む時間があったら百閒をもう一度読みたい、とワシは思ってしまうのですが、人はパンのみにて生くるにあらず。ほかにも「読まずに死ねるか」的な作家が何人かおります。
その一人が中島敦(1909~1942)で、ワシがどのくらい好きかと言うに、生まれた娘に「敦子」と命名したほど好きなのである。33歳だかで病死した人なので、あまり縁起がいい名前とは言えないのだろうが、高校時代に読んだ「山月記」の印象はそれほど深い。(娘も、彼の享年を無事に超えたようだ)
畏友・大野隆司画伯(1951~)から個展の案内状=写真=が届いて「山月記の作品展を開きます」と言うから、「行かずに死ねるか」という気で行ってきた。
【畏友】尊敬にあたいする友人。
会場は千葉県・柏駅から歩15分だが、行きも帰りもワシには遠くてヘトヘトになった。
【へとへと】ひどく疲れて、何をする元気も無い状態だ。
この版画家は「かわいい猫」の作品で知られるが、それは世を忍ぶ仮の姿。「山月記」展には、本当の彼らしい惑乱と狂気があふれていて、非常に見ごたえがあった。
もう一人、10歳ほど年下の畏友・加藤龍勇画伯(本名は洋)を寓居に迎えてサンド会となったが、話した内容は例によってもう記憶にはない。
【寓居】かりずまい。〔「自分の住まい」の意の謙譲語としても用いられる〕
「指輪」に好感が抱けない理由
① ②
どうせ、また誤解されるに決まっているんだ。(なら書かなきゃいいんだが、書いちゃうんだよね)
治五郎は「指輪」というものに好感が抱けない。首輪も腕輪も耳輪も、もちろん鼻輪=写真①=もあまり好きではないが、人類にとって「指輪」には独特の意味合いがあるように思う。おそらく、教会での結婚式を連想するからだろう。
牧師「淳一サン。アナタハ一生、志桜里サンダケヲ愛スルコトヲ誓イマスカ?」
淳一「はい、誓います。私はセクハラとも無縁です」
牧師「志桜里サン。アナタハ終生、淳一サンダケヲ愛スルト誓イマスカ?」
志桜里「はい、誓います。不倫は決して致しません」
人間、ウソをついちゃいかんよ。「~さんダケヲ」に、ワシは強い疑問を感じてしまう。もしも牧師がワシに質問の矛先を向けてきたら、どうなるだろう。
牧師「治五郎サン。アナタハ生涯、コノ女性ダケヲ愛スルト誓イマスカ?」
治五郎「オー、ノー。天ニマシマスいえす様モ『隣人ヲ愛セ』ト仰ッテイルジャアリマセンカ。私ハ、イツカ隣ノ奥サンヲモ愛スルデショウ」
牧師「オー、ノー」
結婚式は、もうメチャクチャである。こういう結婚式(こういうのでなくても)で、必ず執り行われるのが「指輪交換」だ。
指輪は高額なだけに数年後、2~3組に1組は処置に窮する夫婦がいるようだ。(邪推だが、相手を替えて再利用、再々利用する節約家もいるのではないだろうか)
さて、誤解を招かないためには、ここからが重要だ。ワシは「指輪」そのものに好感が持てないだけなのであって、「指輪をしている人」を嫌っているわけでは決してない。(でも、どうせ誤解されるんだよ。グスン)
ワシ自身は、ほんの2度ほど結婚した経験があるが、指輪とは無縁で来た。
会った女性の左手(薬指)に指輪があるかどうかに目が行ったことはない。つまり既婚か未婚かに興味はないんだろう。(どうでもいいのよ)
しかし初対面の男が太い指に指輪をはめていたりすると、つい、顔を見てしまう。あ、アンタ奥さんダケヲ愛しているわけね。(ここを誤解するなっちゅうの)
女性の指輪には別に何も感じないが、男性が指輪を嵌めているのを見ると、つい、顔を見てしまうのは「なんだか伝書鳩=写真②=みたいだなあ」と感じるからだ。
【伝書鳩】遠くの土地に通信文を運ばせるように訓練したハト。
朝から夕まで外で働いて、所定の場所へ定時に帰る。伝書鳩には伝書鳩の苦労と喜びがあるんだろうが、ワシには(「社会人」時代全体を通じて)理解できなかった。
伝書鳩が嫌いだと言っているのではないんだよ、何度も言うけど。
漢字変換ミスの楽しみ、今いずこ
日本語ワードプロセッサーというもの=写真=を、治五郎が使い始めたのは確か1987年ごろのことである。当時、作家の清水義範が「ワープロ爺さん」という短編を書いた。老人が慣れないワープロで息子に手紙を書くのだが、漢字変換がうまくいかない。
<幹事にならん名。どうも変な児が出る>。初期のワープロは実際にこんな調子だったから、いま読み返しても抱腹絶倒させられる。
やがてパソコンが爆発的に普及し、2004年には漢検(日本漢字能力検定協会)が〝変漢ミス〟コンテストというケッタイな企画を始めた。<文字の変換を間違えたために同じ読み方でも全く意味が違ってしまい、真意が伝わらなかった変換ミス作品>をエピソードと共に募集し、オンライン投票で優秀作を選ぶという催しだ。
「あほくさ」とソッポを向く人も多かったろうが、ワシはこういう「遊び心」が好きでたまらないから、文化面のコラムでやや詳しく紹介した。
テレビ番組を見逃して<誰か、ビデオとってるやついないか?>とネット仲間に呼びかけたはずが<誰か、美で劣ってるやついないか?>と変換された文章を送ってしまった青年。我が子の病気を担任教師に報告する母親は<うちの子は耳下腺炎でした>と書いたつもりなのに<うちの子は時価千円でした>。大笑いされたという。
「お金は内藤さんに渡してください」⇒「お金はない父さんに渡してください」
「なに言うてんねん ‼」⇒「何言う天然 ‼」
「書く仕事がしたい」⇒「隠し事がしたい」
その後も〝傑作〟は枚挙にいとまない。
「うまくいかない画像サイズになった」⇒「馬食い家内が象サイズになった」
「今年から海外に住み始めました」⇒「今年から貝が胃に棲み始めました」
〝変漢ミス〟コンテストは、もう行われていないらしい。もったいない話である。