いくらでも眠れるのは、病か特技か
それは、どちらとも言えるでしょうね。
何十年も前から商売柄、朝=写真=の何時に起きて夜は何時に寝るという規則的な生活はしたことがない。仕事で何日か徹夜が続いたり、昼まで飲んで夕方から仕事が始まったりすることはザラで、時間さえ空けば会社のソファで熟睡できる。
そんな生活習慣のせいか糖尿病と診断された時期こそ早めだったが、40代や50代で過労死することもなく、今やレッキとした高齢者。「無理」をした覚えがないので、早死にした人々には何か顔向けできないような恥ずかしさを感じる。(後悔とは違う)
「あれ? 自分のブログが更新されてないな」と思ったら3日たっていた、なんちゅうことが珍しくはなくなってきた。夕方、台所に人の気配がするので声をかける。「帰ってたのか。なんだか久しぶりだな」
昨日の朝以来らしい。「いびきが聞こえなかったら、死んでるかと思うところだった」と言われる。何も食べなくても空腹は感じず、いくらでも寝ていられる。冬眠中の熊みたいなもんだ。
特技というより、やはり病というか衰えに属する現象だろう。(ワシも人間なので)
陰ながら応援したくなる芸人
芸名を「和田まんじゅう」と言うそうだ=写真=。ここ2年ぐらいで芽が出てきたお笑いトリオ「ネルソンズ」の一員。あとの二人は青山ナンタラと岸カンタラで、治五郎は今のところ関心がないけれども案外、彼らの方が将来は人気を得る可能性もある。
ワシには変な〝眼力〟があって、新しい芸人を見て「おっ、こいつらは面白い!」と思えば3組に1組は人気者になる。しかし毎日、テレビに出るほどビッグになってしまうと、冷淡になる。従って、ワシがお薦めする期間は短い。「見るなら今」なのだ。
和田の可笑しさは、面白がらせようとしていないのに「存在そのもの」が可笑しいところにある。そういう人間が、現実社会にも時々いるものだ。
のちのちは優れた性格俳優になるかも、という予感さえある。売れない貧乏時代が続いたが、33歳の現在は2歳の娘がいるそうだ。(頑張りや)
興味のある人は、ユーチュ-ブなどで「ネルソンズ」を検索してみて下さい。見て「くだらん!」と思った人は、どっかで万葉集でも読んでて下さいね。
「深夜食堂」との距離感
何か訳アリのマスター(小林薫)=写真=が、北新宿で深夜営業(0時~7時)の飲み屋をやっている。「客は来ないだろうって? それが結構、来るんだよ」
深夜ドラマだから見る人は少ないはずだと思っていたら結構、視聴率を稼いで映画化もされ(正・続)、最近は海外でも評判が広がっているようなんだよ。
狭い店内が主舞台だから非常に安上がり(のはず)だが、「心と小腹を満たす」というキャッチコピーそのままのストーリーが展開する。大都会の縮図である。
ストリップ劇場の踊り子や常連客、ゲイバーのママ、学者、刑事、地回りのヤクザ、交番のお巡りさん、不法滞在の外国人、貞淑な(と思われている)人妻・・・。
治五郎の田舎の老親が知ったら卒倒しかねないが、どの職種の人をもワシは一応、知っている。(深い付き合いをした人がいたかいなかったか、それは内緒)
「世の中」を構成する人間が、どれほど多種多様なものであるかを想像させられる。現実の社会は、もっともっと多様なんだろう。(ワシが大きな過ちや犯罪に手を染めることなく老境に至ったことは、奇跡に近いような気さえする)
あの時、あの人と知り合っていなかったら。60代も半ばを過ぎると人間、そう実感させられる出来事だらけなのであった。
知らなかったよ。ホントかなあ
日本文学史上、おそらく最も有名な写真2葉である。太宰治=左=と坂口安吾=右=。(©林忠彦作品研究室)
太宰の方は普通、縦長にトリミングされているから談笑している相手の背中は写っていない。この背中は誰なのか? 出版社の担当編集者だろうと思ったら、これがなんと坂口安吾だというから驚くではないか。(背広らしいものを着ているし、体形も少し違うような気がして、素直には信じられない)
今年は、昭和の文士を撮りまくった林忠彦の生誕100周年だと言うので、さまざまな企画が催された(今ごろ気づいている)。新潮社のPR雑誌「波」9月号に息子さんが寄稿した文章によると、背中の人物が坂口安吾であることは間違いないらしい。
この写真は、銀座のバー「ルパン」で織田作之助の写真を撮っていた林に、居合わせた男(太宰)が「俺の写真も撮ってくれ」とせがんだと言う。店が狭いので、林はトイレ(1945~46年だから、銀座といえども水洗式ではなかったろう)の便器にまたがってロー・アングルで撮った、という話だけは昔から有名だ。
新潮社では100周年「作品BOX」を発売中。「無頼」をテーマに作家8人の写真8枚を超高精彩版画で再現し、特製のトタン製ボックスに収めた。限定120セットで、本体価格12万円! よし、すぐ注文するとしよう。(ウソです)
ちなみに、8人の無頼とは太宰、坂口、三島由紀夫、瀬戸内晴美、檀一雄、織田作之助、高見順、田中英光。あの寂聴さんも昔の名前で出ています。そんな時代なのだ。
好物を食いに行って疲れ果てる
夫婦とも、ウナギの肝焼き=写真=が一番の好物である。もちろんウナギ本体も好きなのだが、貧しい庶民にとって近年、ウナギはなかなか手の届かない高嶺の花。夫婦どちらかの誕生日前後など、何か〝晴れの日〟的な口実が要る。
しかも厄介なことに、治五郎は「鰻重だけは松でも竹でも梅でもなく、特上でなければならない」(たとえ1年に2回を1回に減らしてでも)という信念の持ち主だ。
それで昨夜は、久々に谷中・よみせ通りの「山ぎし」まで足を運ぶことになった。谷中に住んだのは東日本大震災の直前までだから(被災したわけではない)、7年半ぶりということになる。
妻が働いている熊野前で落ち合ったが、そこまで10分少々を歩くのが楽ではなかった。右脚の膝から下に筋肉痛がある。日暮里・舎人ライナーで西日暮里まで2駅。そこから山ぎしまでは、さらに10分弱。かつては難なく歩いた距離だが、今は遠く感じる。
肝焼きは(夫婦とも)ここのが一番と評価している。山椒をたっぷり振って、かぶりつく。うむ、うまい! 多淫、いや多飲で少食のワシはもう満腹感があるのだが、ここまで来て鰻重(特上)を食わずに帰るわけにもいかない。
(タレの量が少し減ったか?)と感じる以外は、ウナギの量にも質にもマイナスの変化はないようだ。値段もプラスに変わっていないようなのは、立派。
同じコースを家まで引き返すのが面倒になってきた。歩12分ほどの動坂下(どうざかした)から都バスに乗るという妙案が浮かび、そこまで頑張って歩いた。介護者の肩につかまって休み休み15分。乗ったと思ったら11分後には家にいた。(バスが家の真ん前に停まるのだ)
いやあ、しかし疲れた。あとは12時間以上、いびきをかいて寝た(らしい)。うなぎはスタミナがつくと俗に言うけれど、実態は疲労を促進させるのではないだろうか。
もはやサルトルは読めません
モンゴル人妻(モンゴルと人妻の間を区切らないこと)の机に「YГ」と題した自国語の翻訳書が置いてある。YГ(ウグ)は言葉という意味だ。(その程度なら分かるのだ)
原著者は誰かと見たら、Жan-ПoлЬ Capтp とある。ん~っと、これは確か「ジャン=ポール・サルトル」と読むんだった。(そこまでは何とかなるのだ)
しかしページを1枚めくると、そこはもう五里霧中、チンプンカンプンの世界。
フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)=写真=の作品なら、治五郎も20代前半の頃に少し齧った記憶がある。「嘔吐」だったか「存在と無」だったか。しかし正直言って、歯が立たなかった(当時の歯は丈夫だったのだが)。
「実存は本質に先立つ」とか「人間は自由という刑に処せられている」とか、何もそう物事を難しく難しく考えなくてもいいじゃないか。と感じた。ボーヴォワール女史との内縁関係には興味があっても、彼の本業である哲学にはついていけなかったのだ。
「言葉」という著書は、12歳だかまでの思索遍歴を振り返った自伝だそうだ。「面白いのか?」「難しいけど面白いよ」。ワシはもう妻にもついていけないらしい。
世に「鉄は熱いうちに打て」と言う。「熱いうち」を10代、20代と考えれば、65歳の鉄は冷え切っている。どうもならなんのじゃ。邦訳でも歯が立たなかったのに、モンゴル語訳に歯が立つわけがないだろう。(そもそも入れ歯以外の歯がほとんどない)
若者よ、たまにゃ難しい本も読みなさいね。
「鶏口」ト「牛後」ヲ論ズ
けいこう【鶏口】〔「ニワトリの口」の意〕「―となるも牛後となるなかれ〔=大きな団体で部下になっているよりも、小さな団体でも かしらになった方が精神衛生上いい〕
ぎゅうご【牛後】〔牛の尻(の方)の意〕強大な者につき従う者。大きな団体の、低い地位(の人)。「―となるなかれ」⇨鶏口
これが古人の教えである。今風に言えば、小さな企業の社長になった方が大企業の半端な地位で終わるよりはマシだということになるだろう。テレビドラマ「下町ロケット」の人気の陰には、この考え方への共感があるように思う。
治五郎は、鶏口=写真左=ではなく牛後=同右=の道を選んで、37年間の長きにわたる勤労生活を終えた。自分の偏った性格と指向に照らして、全く反省すべき点はない。
①出世したいとか金を儲けようとかいう欲望がない ②欲があるとすれば、新聞という媒体を利用して書きたいことを書き、遊び心の分かる読者がいたら面白がらせたい
もう少し詳しく言うと、まず「管理職」というものになりたくない。自分さえ書けていればいいので、自社製品(紙面)全体の評価は二の次。(ひどい社員がいたもんだ)
自分の収入がいくらなのかも知らない男が、会社を興したりできるわけがない。しかし生活の心配をせずに原稿を書き続けるのに、新聞社ほど居心地のいい場所はない。会いたい人や行きたい国があれば、しかるべき届けを出せばいいのだ。
「来週、沖縄に行きます。3日じゃ足りないので、4泊」「今度の企画ではアラスカに行く必要がある。10日下さい」。まあ、大体は通る。ワシが何の罪悪感も無しでいられるのも、帰ってから死に物狂いで書いた原稿がデスクを通ったお陰だろう。
「バカな上司とは喧嘩をしないこと」というのも、大事な教訓。そこを我慢できなかったばかりに、編集現場を去った尊敬すべき先輩を何人も知っている。
牛の尻(の方)を見る機会が最近は少ないのが、少し寂しい。
ドイツのTVドラマに〝出演〟した話
社会部記者だった30代半ばのある日、部長から呼ばれた。(また何か不始末が発覚したかな)と心配したが、そうではなかった。
「おい治五郎君(ではなく本名)、キミはドイツにいたことがあるんだって? ドイツ語は出来るのか」
「子供の頃に3~4年いました。当時は話せましたが、その後は使う機会がなかったから、今じゃすっかり忘れました。という程度の会話なら出来るけど」
「ドイツのテレビ局が社会部内の撮影をしたいと言ってきてるんだ。ドラマの1カットに使うだけだというからOKを出した」。3~4人のスタッフと俳優が来た。
30年前の社会部と言えば、まだパソコンはない。うずたかく積み上げられた本や資料の陰に酒瓶や灰皿が転がっている。「乱雑」を絵に描いたような職場で、それを撮るのが向こうの狙いなのだろう。(日本の新聞社では、部長になっても個室が与えられないのか!)と、驚いている様子だ。
いきなり「役」を与えられた。「若いデスクが、急に社を訪ねてきた外国人の話を黙って聞いているところを演じてほしい」と、ドイツ語と英語のチャンポンで言う。おいおい、聞いてないよ、そんなの。
ドラマは(もう覚えてないが)、何か冤罪を晴らすんだか人を探すんだかで極東へやってきた主人公が、マスコミを訪ね回って必死に真実を訴えるという風な内容。回想シーンの中の1カットとして数秒だけ使うらしい。
俳優の話を聞いてるだけなら〝演技〟は必要ないはずなのだが、だんだん要求が増えてきた。「そこでカメラの方を見ないで」「話にあまり関心はないという顔をして」
どちらかといえば、分からず屋という「悪役」なのである。
30~40分の経験ではあるが、汗だくになった。ワシは役者としては大根=写真=なのだということが、身に染みて分かった一日であった。
【大根】㊀畑に作る一年草。長くて白い根をおろしたり 煮物にしたり 漬けたり する。だいこ。〔アブラナ科〕 ㊁〔芝居が〕へたな▵こと(人)。「―役者」
現代の2大「嫌われ者」
言うまでもありません。その二つは、①野良猫 ②喫煙者でありましょう。(写真は、①保健所での殺処分を待つ猫 ②往年の名優ゲーリー・クーパー)
この30~40年の間に、どちらも「アイドル」から「社会の敵」に転落した。彼らは、もうどこへも逃げ場がない時代になってきた。追い詰められたのだ。
治五郎あてに、マンションの管理会社から1通の封書が届いた。共有部分でタバコの臭いがするという入居者からの苦情があるという。気をつけてはいるつもりだが、敏感な人からすると、少しの臭いにも耐えられないのだろう。
ここを「終(つい)の棲家(すみか)」にしようと思って選んだ1DKではあるが、またも追い出されることになるのであろうか。追い出すなら、ちゃんと「処分場」を用意してもらうわけには参りませんかね。
ワシは本質的に一種の野良猫だから、文句は言わないよ。(ダメ? やっぱりダメか)
「贈収賄のネズミ講」とは名言である
デーモン閣下=写真左=のことを、テレビのニュース番組が「デーモン閣下さん」と呼んでいるのを聞いた。「デーモン閣下」という芸名に「さん」を付けるのは間違いではないだろうが、何か違和感がある。「天皇陛下さま」みたいな・・・。
どうもデーモン閣下には、デビュー当時から「芸名そのものが尊称付きなら、吾輩の尊称を省くようなマスコミは現われないはず」という〝読み〟があったのではないか? とワシは踏んどる。ま、それはさておき。
中国出身の、有名女優やインターポール(ICPO=国際刑事警察機構)総裁が消息を絶ち、だいぶたってから祖国の処分内容が発表されるという事態が続いている。罪状は巨額の脱税その他とされるが、真相は常に藪の中だ。
この大国が、報道や表現の自由に関して遅れていることと言ったら100年や200年のスケールではない。治五郎が思うに紀元前、秦の始皇帝=右上=が行ったという「焚書坑儒」の伝統が今も脈々と生きている。千年、2千年を超す歴史の重みとでも言おうか。
役人の贈収賄が後を絶たないことについて、上司に賄賂を贈るためには部下から賄賂をもらうしかないという〝連鎖構造〟があることを評して、デーモン閣下は先日「贈収賄のネズミ講」と表現した。一瞬「吾輩も上手いことを言ったもんだ」というドヤ顔になったのだが、司会者がフォローできなかったのは惜しまれることだ。
こんなことを書くもんだから、治五郎はかの国の当局から快く思われていないらしく数年前、前身のブログ「谷中庵日録」が北京では読めなくなっているという報告を、旅行中の友人から受けたことがある。
「まさか」と思ったが、ここ一両日、日本でも「治五郎日記」が読めなくなり「すわ、サイバー攻撃か」と身構えたが、これは例によってワシのミスタッチのせいで画面が消え、復元できなかったのが原因のようだ。
忘れた内容を思い出すのに手間がかかり、復旧に時間を要した。お騒がせしました。